2016年6月30日木曜日

なるほど、その神社でパワーを貰ったんですねとか言いたくなったら、懺悔の念をこめて俺の手伝いをしてください。ひきよせも禁止。

ものすごい偶然のタイミングで、先日、とある神社に行ってきた。
そこで少し認識を新たにすることがあったので、現時点の記録。

神様に何か祈願して、それが叶ったらお礼参りに行くわけだけれど、例えば商売繁盛みたいなことをお願いして、繁盛したお礼に手ぶらで行く人は居ない。ありがとうございましたと、いう感謝の念と奉納するものもお金も、繁盛の度合いによって増えていく。
そういうのが夥しくなれば、放っておくこともできないので、神社という「場」は、当然神域ということで清浄にされ、盛んになる。盛んになればそれは単純に「ご利益」があるって話しになり、そこには益々人が集まる。
かなり乱暴な略だけれど、見て取れるものを言葉に変えるならこういう循環だ。

様々な場所で人が集められ、そこで「場づくり」や「チームビルディング」が意識されている。その場で得られたことに対して「目からウロコだった」とか「気づきを得た」とかいう決まり文句が聞かれるが、それが盛んになる神社のような循環を得られるのかといえば、誰かそんなことを意識しているだろうか。
感謝の念とか、ご利益なんてのは、神様相手のこと。人が集まって何かをする場合、そこのニュアンスはちょっと置いておいて、考えてみてほしい。
人が集まって何かをする場の循環。「世代交代ができない」とか「マンネリ」という言葉はよく聞かれる。
それを「魅力づくりに取り掛かろう」「マーケティングしよう」とかいう、できもしない具体性を欠いた思考停止向けの決まり文句で片付けるのではなく、自分たちができる範囲のことで、何をしていないかを考えれば、現状万全の対策を講じているということは、ほぼ無いのではないだろうか。足りないこと、やっていないことの把握と、把握したらやるだけ。それをしていない。
「できないからやっていなかった」ということもあるかもしれない。本当に必要なことなら、「できない」を「できる」に変えて実行すればいい。どちらにせよ、これまでと違って見えているのだから、暗中模索よりは格段にマシな筈だ。

0 件のコメント:

コメントを投稿