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2017年2月27日月曜日

血パンダ公演『Generalprobe』前口上

特に「劇場」を絶対に使わないと決めていたわけでもないのですが、演劇やるにあたって劇場は必須のものではないと、とっくの昔に発見済みなもので、今回、結成以来初の劇場公演となります。
バトンに吊られている照明器具とか、なにもしなくても全暗転できる環境ってのは、やっぱり便利ですね。
「初めて劇場で」ということで「おめでとうございます!」とか言われたりもしましたが、そもそも念願とか全くしてこなかったので、その辺全く目出度くもなんともない、いつもの血パンダ通常営業なので、ご了承ください。

台本を書いて演出をする様になってから30年ほど経ちますが、これは同時に、感情移入がどうとか、共感できたとかできなかったとか、理解できたとかできなかったとかいう、どうにも消費目的の欲望との無駄な戦いとの年月でもあった気がしています。
そういった、どこで覚えてきたのかもわからない演劇を見に来る動機と戦うなんてのはそもそもナンセンスなことで、早々にそういうよくわからないところから降りて、極めて正直に、ただ圧力だけを用意する努力をする様になりました。
本当に悲劇しか模索しないし、演じられている場に吊り込まれた人の日常に、ほんのりで良いので侵入できれば良いと、それを目標にしてきました。

そうなるとかえって、世間的にそういう消費のされかた、期待のされ方をしていない様に見えるジャンルが羨ましかったりするんですが、じゃぁ、演劇やめてそっちやろうかとならないのは、なかなかどのジャンルも演劇ほど上手くマイナスの感情を無造作に放り出してみせることができないからだと、今回の稽古場で再確認したものであります。

Generalprobeとは、本番前に本番と全く同じ形で行うリハーサルのことで、日本ではゲネプロとかゲネとか言います。
日常が止まることなく命の終わりに向かっていく本番と捉えたら、演劇のゲネプロなんてのは、虚構のための完璧な予行演習という、ありえない贅沢な時間で、そりゃもう、出来のいいゲネプロは誰とも共有したくありません。
 
『Generalprobe』大変恐縮ですが、本番をごゆっくりお楽しみください。

2016年9月6日火曜日

血パンダ公演『それはサイコロの一番大きな目ではないなにか』前口上

多様さというのは、というか、人はそもそも多様であるというのは、当然のことだと理解しているつもりでは居るのですが、概ね同じものを見て、同じ経験をしていても、人の見解というのは本当にまちまちなのだということを痛感する昨今です。

遠くのことだったり、いちいち立ち止まらなければ、どうってことはない気はするんですが、日常的に細かく違うことを目の当たりにし続けると、いろいろと考えなければならないことも多くなって、個人的には楽しいんですが、こういうことをストレスに感じる人も居るんだろうなぁと、ほっこりしております。

「なぜそんな風に考えたの?」と改めて問うてみると、そんなものを根拠として採用して行動を開始したのか……。と、びっくりする様な場合や、話しを聞いていて、ところどころで、「あ、ここで考えることをやめた」と見て取れるキーワードと出会うのがまた人の罪深いところ。
なぜ、この人は、なんの話しをしていても、そっちにいってしまうんだろう。
と、なかなかそこまでの極端な人に出会うことは少ないですが、人というのは果たして、何らかの糸口を見つけて相互理解を進めていくのが良いのか、関係性というのはどの様に形作られていくべきなのかと、あ、悲劇は既に人の関係性の中にしか存在できなくなっているという血パンダの大テーマに囚われている私の目からは、なんせまぁ、いろいろそんな風に見えてしまうわけです。

いやはや、明日ってなんだ。どっちだ。

2016年8月26日金曜日

力加減について考える

なるべく平易な文章で書くブログというやつを、持っている中で一番長く確保しているドメインで建ててみたものだが、実は7月の最後のエントリー以降、ずっと小難しいことを考えていて、ではそれを噛み砕いて書くとなると、それはそれで仕事の内容にも触るので非常に都合が悪い上に、こちとら日常の中にはろくに打ち込んでいる趣味も持たないので、書けることはあるけれど、ちゃんと平易にはとてもできないという、大変困った状況になっている。
読んだ本も見事に資料ばかりだ。中には非常に極端な与太本もあり、これだけ抜き出してなんか書くと、唐突にそっちに行った人になってしまいかねない。
平易なやつはここね。 http://shiratama.net/

毎度、当事者にしかわからかったり、慣れた人間でないと読めない暗号で書いているわけだけれども、先日ちょっとした自己申告というか指摘があったので書いておくと、書くときに読点は意識的に減らしているというか、ちょっと息が長めのリズムで書いている。
その方がなんだかんだで暗号にしやすい。
耐性のある奴と興味のある奴と当事者にしか入ってこない文字列のできあがりというわけだ、構造的にはもう幾つかのポイントはあるけれど、面倒なので詳細は推して知るべし。

なんだかんだでFacebookになんか書く理由も無くなってきていて、なかなか面白い状況。
来年の夏ぐらいまでこのぐらいの速度で、できれば向こう5年ばかり、このまま加速していけないかしらと思いながら居りますです。
いろいろ手伝っていただけるとありがたいので、案内はその都度。

2016年6月30日木曜日

なるほど、その神社でパワーを貰ったんですねとか言いたくなったら、懺悔の念をこめて俺の手伝いをしてください。ひきよせも禁止。

ものすごい偶然のタイミングで、先日、とある神社に行ってきた。
そこで少し認識を新たにすることがあったので、現時点の記録。

神様に何か祈願して、それが叶ったらお礼参りに行くわけだけれど、例えば商売繁盛みたいなことをお願いして、繁盛したお礼に手ぶらで行く人は居ない。ありがとうございましたと、いう感謝の念と奉納するものもお金も、繁盛の度合いによって増えていく。
そういうのが夥しくなれば、放っておくこともできないので、神社という「場」は、当然神域ということで清浄にされ、盛んになる。盛んになればそれは単純に「ご利益」があるって話しになり、そこには益々人が集まる。
かなり乱暴な略だけれど、見て取れるものを言葉に変えるならこういう循環だ。

様々な場所で人が集められ、そこで「場づくり」や「チームビルディング」が意識されている。その場で得られたことに対して「目からウロコだった」とか「気づきを得た」とかいう決まり文句が聞かれるが、それが盛んになる神社のような循環を得られるのかといえば、誰かそんなことを意識しているだろうか。
感謝の念とか、ご利益なんてのは、神様相手のこと。人が集まって何かをする場合、そこのニュアンスはちょっと置いておいて、考えてみてほしい。
人が集まって何かをする場の循環。「世代交代ができない」とか「マンネリ」という言葉はよく聞かれる。
それを「魅力づくりに取り掛かろう」「マーケティングしよう」とかいう、できもしない具体性を欠いた思考停止向けの決まり文句で片付けるのではなく、自分たちができる範囲のことで、何をしていないかを考えれば、現状万全の対策を講じているということは、ほぼ無いのではないだろうか。足りないこと、やっていないことの把握と、把握したらやるだけ。それをしていない。
「できないからやっていなかった」ということもあるかもしれない。本当に必要なことなら、「できない」を「できる」に変えて実行すればいい。どちらにせよ、これまでと違って見えているのだから、暗中模索よりは格段にマシな筈だ。

2016年2月28日日曜日

血パンダ公演『夜は』前口上(2016.02.27)

文化を殺して金勘定だけを植え付けるから、ただ生きることから恋愛に至るまで、ありもしない利子の計算が始まり、人の関係はどんどん単純になっていく。
単純な関係しか知らない人間は考えることをせず、簡単に孤独になり、簡単に臆病になり、計算できる欲にだけ忠実になる。その結果、子供は全く計算不能なため、子供を作るという選択は消え、人は絶えていく。

シネコンができるから「街なかに映画をなくしてはいけない」ことが目的だったフォルツァ総曲輪が役割を終えて休館するというニュースに触れて、シネコンで上映される映画と、単館系の映画の違いもわからないという、マーケティングセンスを問う以前の、文化を認識する能力のあまりの低さに度肝を抜かれました。
9年間の映画館運営の果てにこの認識なので、問題は個人の資質ではなく、集団の、もっと致命的な部分にあるのだと考えています。

そんな中で、一般的な認識の枠を超えた場を作りたいというゴールドカレー富山豊田店のオーナー保坂さんから声をかけていただき、今回の公演が決まりました。
フランス料理店が舞台の『夜は』をカレー店で上演できる巡り合わせ。
劇場は最初からあるのではなく、演劇があればそこが劇場になるのだということを体験していただき、場とは何か、枠とは何かを考えてみていただくのもいいかなぁと、そんな風に考えています。

2016年2月24日水曜日

確かに、莫迦なことしてるなぁと思いながら遠巻きに観察することはある。やる奴はやられる。

演じている人間を見るというのは、幼い頃のままごとや、ごっご遊びから人間に刷り込まれた妙な決まりごとというか、習性の様なもので、とりあえずその良し悪しはともかく、演じている状態、演じているのに近い状態を目撃したら、心理的に一定の自動処理があるものだと思っていた。
それこそ、誰かがこう言っていたよと伝えるために、その誰かの発言の部分だけ、口真似まではいかなくても声色が変わる程度でも、それが演じられている状態だとわかる。
微細なものが判断できるのだから、あとはただ見るだけと思っていた。
ところが、世の中そう単純なものでもないらしい。
「バカなことしてるなぁ」というフィルターがあって、そこに引っかかると演じているもへったくれもなく「バカだなぁ」「楽しそうだなぁ」というところで判断が止まるという指摘を受けて、昨日目からウロコが落ちました。

亀吉という名の口パクのカエルから腹話術の練習を「手段の目的化」だと指摘される。

口パク人形が、ホドロフスキーの言葉を聞いて自我に目覚めたかの様にふるまう。

やりとりの内容も構造も、かなり長々と解説はできるものの、そんなことは敢えてするもんでもなし、確かにぶっつけ本番の勢いだけでやっているので、「いい大人がバカなことをしている」ムービーだ。
そうか「バカだなぁ」から先に行かないのか。
なんか作戦考えなきゃなぁ。まだまだクオリティ低いんだなぁ。

あ、真面目にやってる演劇の方の公演がまもなくです。
こちらもぜひ。『夜は』というお芝居で、フランス料理店のスタッフルームが舞台なんですが、それを営業中のカレー屋で演じます。あ、こういうのがいかんのか……。バカフィルターにかかる?バカフィルター?そういえば、『バカの壁』読んでないけど、こういうことへの対処法が書いてある?

血パンダのホームページ
http://blood-panda.net/
血パンダのFacebookページ(『夜は』のイベント立ってます)
https://www.facebook.com/BPchipanda/

2016年2月18日木曜日

箱の運営するってことは、作る側としては終わる気がする。そっちの方が嫌だわ。

映画館兼劇場って感じの文化の中心地の件。
思えばカレーフェスタやTEDxHimiも、ずっとこんな感じがスタートで具体化してやってきてるわけで、今回もそんなノリから始まりでいいじゃないかということだ。
本当に実現できるのかも含めて、ずっと継続して考え続けるし、何年かかってもいい。持ったまま時間経って、腐ってダメになるならその程度のものだったってことだ。
本当は、明敏な運営者が現れてくれれば、そっちの方が俺は自分のことができるので嬉しい。
興味があれば知恵と力を貸しておくれ!あ、金でもいいよ。

映画館兼劇場って感じの文化センターの件。これ実は、都会に出た若者が地元に戻ってくるためにも、結構重要な施設。
劇場がない。映画館もない。ギャラリーもない。公のものは全部埋まってて、現場は優秀かもしれないけど、窓口の奴はちょっとググって裏をとる気も無いのが通常のクオリティだから、何処のコロニーにも属してないみんなには受け皿が無い。皆無。

先に大家さんを発見するよりも、金の準備できてから大家さんにおねがいする方が良さそうだ。ネタの説得力としての金ね。大家さんが持ってるのは不動産だから、向こうはそうそう動けないけど、こっちは身軽。だからせめて、金の分だけでも重くなっておきたい。

クラウドファウンディングは、実際に運営を始められたら、その時には挑戦してみたいネタがあるので、立ち上げはとにかく泥臭いお金集めだ。

【最初の行動?お題ふたつ】
1.お金って、こんな場合どこから引っ張るもの?
自慢じゃないが、パソコンがあればなんとか仕事になるというレートの低さで、ちんたらちんたらやってるので、ちゃんとしたお金の集め方がわからない!
金主を探さなきゃいけないんだが、こんなね、ほぼ手ぶらでネタしかない場合、そもそもどうやって探すものかもわからないので、俺知ってる!って人は教えて。
能書きならある。プレゼン資料作る。えーっと……。事業計画も?まあ、そこら辺は任せろ。

2.みんなでゆるふわひきよせ!
みんなでロト買ってほしい。で、一等当たった人がいたら、当選金額の中から1億+αだけ俺にちょうだい。これ、多分、何気ない遊びで大勢でやると効く気がする。運命の束。束になってかかれば、なんとかなる気がするから不思議!

【おまけ】
フォルツァ総曲輪が今からみんなでギャーギャー言って存続するならそれはそれ、しなかったら、富山市で「文化」とか口走る役所絡みの人間と会うことがあったら、赤ちゃん言葉で優しく話ししてあげる。漢字やカタカナで喋るのもやめる。
これは、覚えている限り飽きるまでやるつもりなんだけど、みんなもどう?

2016年1月31日日曜日

虫からの電話

むかしむかしあるところに、一冊の本がありました。
本にはただずっと「?」と書いてありました。
そんな本の意味をリンゴを食べながら考えていると、電話がかかってきました。
虫からです。
虫は今、エジプトのピラミッドの頂上に居て、そこから謎の足跡が見えると言っています。電話で様子を聞いていても、なんのアイディアも浮かびません。秘密を解明するための鍵も鍵穴も皆目わからないので、とりあえず、虫のいるエジプトに行くことにしました。


2016年1月28日木曜日

TEDxHimi2016を終えて

情熱的で勇気の出るやつは、恐らくそのうちファウンダーが書くと思うので、忘れないうちに、とりあえず会場の裏方的な備忘録。
各地のTEDxから応援に駆けつけてくれた皆さんに感謝を。ありがとうございました。
特に、仕事をふらない前提だったのに、いきなり映像のオペ席に座らせてしまったTEDxKyotoの金谷さんには、タスクやら人員の最終的な管理を見ていた身として、穴があったら入りたい感満載でおります。ありがとうございました。

氷見でやる意義?

TEDxHimiは、日本海側初というだけでなく、日本の5万人規模の都市で行われた最初のTEDxらしく、準備開始当初から、こんな質問を受け続けました。
「なぜ氷見?」「氷見でやる意義は?」
お決まりだとは思います。
この質問に対しては、本当に嘘くさいところまで、どこまでも遡って最もらしいことは答えられるんですが、おそらく、この質問をする人が満足する答えが、私自身の口から出ることはありません。
氷見でやる理由もなにも、場を作り、そこに集い「Ideas worth spreading」をやれと定義されて、TEDからTEDxHimiのライセンスを受けているファウンダーが「Ideas worth spreading」やるから力貸してよと声を出しているから、それに力を貸してTEDxHimiを実行するだけのことで、それ以上の本質はありえないと考えています。
トークイベントは「Ideas worth spreading」のひとつの手段。紙を綺麗に切るのはハサミがいいのかカッターがいいのか、道具を選ぶ理由を聞かれても、適材適所でとか、手元にあるもんで切りなはれとか、カッター派ですとか、ハサミ派ですが握り鋏はちょっと……。とか、そうならざるを得ないのと同じです。
こういった戸惑いはあったものの、富山県内、氷見市内からの支援には非常に熱いものがありました。今後、いかに地元に受け入れられていくか、氷見市界隈はTEDxを開催している場所だということを、地元の皆さんに自慢してもらえるようになることも、ひとつの指標であると見ています。

初回を終えて

初回を終えて、全体のスケジュールが最低でも二週間、できれば一月半前倒しにできていれば、今見えている範囲でのクオリティの向上は実現できるのではないかと考えています。
今の時点で、やり足りないとか、もっとうまくやりたいと考えた関係者に対してはもう、このエントリーが「ありがとう。お疲れ様。次回はもっと前倒しでいこうぜ」と、これが最初の発声です。
ファウンダーも既に、次回のテーマのアイディアを思いついたらしく、そんな内容のコメントをFacebookで目撃しています。そんなわけで、よろしくね。

『トークイベントの会場の熱や圧力をどのように高めていくのか』スピーカーに対して集中せざるを得ない環境の作り方と演出の問題。
今回も、空間そのもの、開始から終了まで一貫した意図がありました。今後もそれは変わりません。
会場の制約、予算との兼ね合いはあるものの、こちらはその都度、様々なアイディアを投入できそうです。
カメラで撮影した場合にどう見えるかという問題もあります。
切り取られた絵についても、しっかりと見ていきたいと考えています。
次回からは、段取り合わせを最低でも二回以上は確保したいものです。

『参加者の会場での快適さや居心地の良さはどのように確保するか』機能的にはかなりしっかりこなせていたロビー周辺ですが、参加者に快適に楽しんでもらう、少し避難する場所としては、今回は少し手薄だったかもしれないと見ています。
会場の制約もありますが、これも今後の課題。

『ゴミの減量。そもそもゴミを出さない方法は無いのか』
参加者に提供するものの工夫も含めて、いろいろと困難は見えますが見えるものは隠れているものよりも解決は楽な筈。
全体が200人程度のトークイベントなら、完全にコントロール可能なのではないかと見ています。

私自身は、この三点についてのアプローチを中心に、今後もTEDxHimiのクオリティを向上させる努力を継続していきたいと考えています。
とにかく、私自身はそうでもないですが、スタッフの多くが半分は優しさでできていることで、悪く出た目もあるように感じています。なので、スケジュール前倒ししようぜ。
もう一点、とりあえず条件はどうあれ、なんとかするしかないという風に考えなければ、何も前に進まないということが、多くの場面で見られました。フォーマットもレシピもないなら作るしかないわけで、この模索の方法を共有することの難しさを改めて感じました。今回のTEDxHimiは、裏方としては、0から1を作る作業でもあったわけです。
当然、各地のTEDxのフォーマットをありがたく参考にし、利用させていただいたことは言うまでもありませんが、それを氷見で具体化するにはどうしたらいいのかという点での模索も多くありました。これはもう、一回やったので、ある意味クリアです。

なにはともあれ、スタートラインにはどうにか立てたわけで、早々に、次回の準備に入りたいと思います。

2015年12月25日金曜日

その火を飛び越して来いと、初江が言ったのとは全く関係のない話し。

真面目な感じで、とある値を取得していたとしねぇ。Wordpressの話しよ。
こちとら、自分が楽するためのスクリプトとかを、稀になんとなく数行書くことがあるだけで、プログラマーじゃねぇから、とにかくちゃんと拾えるのかどうかってレベルから、いちいちおっかなびっくりよ。
もうね、関数リファレンスとか見ながら、あー、やべー。でも、これはもうwhileの中なんだし多分これで回せば全部取れて、出力も……。
とかやるわけですよ。思ったものが拾えました。出ました。出た。
でもね。なんでコンマで区切って出力するの?やだ、そんなことお願いしてない。
というか、いろいろそういうのをfunction.phpで定義しないためにもプラグインに頼ったりしたわけですけど、これに関しては、そちらも守備範囲の外なの?と、暫く悶絶します。
しょうがない。出てるもんは入れてる筈だから、こいつの形をデフォルトで定義している場所に行き当たれば、思ったとおりにできる筈!どこやねん!
というか、そんなわけでWordpressCodexで言及されてるファイルに行ったら、確かになんかそれらしいことは書いてあるけど、コンマは何処に消えた。もっと奥なのか!Wordpressの奥の奥か!
絶望して別の方法を探すわけですけど、それがあなた。
探して試したら一瞬でポンですよ。だって、そっちの方法なら、自分でその場で出力を定義できるわけで、今までforeachとかね、配列に突っ込んだりしていたのそれがあんた、ほんの一行やないか……。いえ、それが関数ってもんですよね。細々とした手続き、ありがとうございます。
  1. キーワードをそのものズバリしか知らないので、直に触る方法を発見してそいつをこね回す。
  2. そうこうしているうちに、別の言葉も発見して、もうちょい便利にやってくれる方法を見つける。
これってなんか成長みたいな感じに見えるんですが、Wordpressのテーマディレクトリの外には絶望しかないから、出るな。オケー。出なきゃダメな感じってことは、他に方法ある筈だから落ち着け。ってことですかねぇ。多分そうね。
支配されろ!この幸福に飼われろ、って、そうですよね。仕組みを選ぶってのはそういうことでした。

雑念が多すぎて、プログラマー全然向いてないと言われたもんですが、ひしひしと噛み締めてしまいまうクリスマスイブでした。

2015年12月22日火曜日

もういい加減、剃らなくていいぐらいハゲないかなぁ。

風呂場にずっと、接合部分に錆の浮いたシェービングクリームの缶がある。
いつからここにあったものか記憶にないが、この缶を使っている最中に、なにかの理由で新たなシェービングクリームが家に持ち込まれ、その都度利用が中断されてきたものだ。
中断の理由は様々で、旅行先で買ったシェービングクリームを使い切るためだったり、試供品を貰ったり、なぜか何処かから新しいものが持ち込まれたり、そうしているうちに、缶が錆ていき、切れたものと勝手に勘違いされて新しいものが補充されることもあった。
結局何年使い続けたものかわからないが、このシェービングクリームは中身が切れることなく使い続けられ、そしてその見てくれや、代わり映えはしないが、その時々の理由で別のシェービングクリームによって利用が中断され続けた。
今日も、風呂場で泡を出してから、そういえばこのシェービングクリームは切れないままだが、一体どうなっているものかと思い、改めて手にとって振ってみたところ、どうも最初に泡を出すために手に取った時よりも格段に軽く感じられた。
振った瞬間には中身のある様な感触があったのに、改めて泡を出してみると、弱くガスが出るだけで、全くそんな気配は無かったが、ついに使いきってしまった様だ。
日常から魔法が消える瞬間というのは、決まってこういう風だと改めて知ることになった。

2015年9月11日金曜日

Minecraftサーバを模索するのも一段落ということで、一応書いておくのでした。

TEDxHimiの作業をしようぜというときに、wk2tさんが長男にマインクラフトをやらせたのがそもそもの始まり。なんだかんだでサーバを立てることになったわけですが、とりあえずなんとなくレシピができたので、構築の手順だけアップしておきます。
わからない呪文があっても、たいしたことしてないので、キーワードを拾って落ち着いてググれば大丈夫。
「スクリプトを書き」とあっても、コマンド書いて、.shというファイル名にして保存し、実行権限付けているものばかりです。パーリナーイ☆
  1. CentOSをミニマムでインストール。とりあえず、rootしか設定しない。
  2. ネットワークを設定しなおす。DHCP→STATIC
  3. SSHとMinecraft用のポートを解放。
  4. Javaをインストール
  5. /etc/fstabを編集して、homeディレクトリをRAMディスク上に作る様設定。とりあえず1G確保。
  6. minecraftユーザーを作成。そのまま、home下にできたディレクトリにMinecraftサーバを展開。wget面倒だったので、別のPCに落としたものをscpしました。
  7. Minecraftサーバ自体は、メモリを2G利用することにして、スタート用のシェルスクリプトを書く。
  8. /varディレクトリに、minecraftディレクトリを作成。rsyncで/home/minecraft下をコピーするシェルスクリプトを書き、cronで毎日午前3時に自動実行。
  9. システムを落とす際にも、バックアップのスクリプトが動く様に設定。
  10. システム起動時には/var/minecraft下の内容を/home/minecraft下にrsyncでコピーする様、スクリプトを書き、設定。
  11. Minecraft自体が簡単にぐずって落ちない様に、server.propertiesのmax-tick-timeの値を-1に変更。
  12. なんかもう、ダメ押しで、rootさんがnice -20でMinecraftサーバを起動することにした。もうちょっと性能の良いPCがどこかから転がってくるまで、多分このまま。
こんな感じで、Pen4の3.0Ghz、メモリ4Gのマシンだと、ゾンビトラップでゾンビ200体を生成し、生成中の稼働率をtopで見ていてもCPUは106%、メモリも46%程度を利用するのみ。
二人ログインの状態で200体を一気に殺してもCPU稼働率は一瞬150%を超えるだけで、あとはおちつく。さすがに、CPUの稼働率が100%を超えていると、穴掘りは多少ラグる。
むしろ面倒なのは、2~3人で全力で未知の領域に走ったり、同時に穴を掘りまくったりではないかと見ているが、やたら負荷をかけるプレイさえしなければ、この環境で普通にプレイできる。
とはいえ、なんだかんだでCPUのパワーが凄く大切だよと、最初に聞いていたことが改めて浮き彫りになっただけの、なんだか普通の展開でした。
このマザボも10年選手なので、そうこうしている間に先日いただいてきたDellのC521に差し替えて64bitパワーはいかがなものかも試したいところ。多分、ラグはマシになるものと期待しています。

今後はといえば、今はこのサーバがルーター下にあるのだけれど、メモリが8G以上乗るPCがあれば、システムごとRAMディスクに放り込みつつ、ルーターとMincraftを稼働させて運用ってところまでが、今見えている遠足であります。もっと遠くはあるのかしら。

2015年8月24日月曜日

濃いやら薄いやらわからん週末でしたが、なんですかね。なかなかきちんとは噛み合わないものです。

TEDxHimiで集まれる人間だけでなんとなく飲もうぜとか言いながら、相当楽しく飲んで飲み過ぎてしまい、土曜日をぐったりマインクラフトやらなにやらで潰し、更に日曜日まで似たような感じになってしまったわけですが、ワールドのどこを探しても牛がおらず、ひたすらどこかに恐らく居るであろう牛を目指すか、読書か読み聞かせをしているかという日々でした。
まだ困ったことがあってもググったりしていないので、いろいろ抜けていることはあるとして、草刈ったら出てくる種が麦になることを発見したのが一昨日。
牛に必要なのは麦や!というアドバイスで、麦を持ってふらふらしたら、牛があとからついてきたのが今日。牧場はじめました。牛が付いてくる様子を見ながら進もうと後ろ歩きをしていたら、背後でクリーパーが爆発して瀕死の重傷を負いはしたものの、なんとか死なずにやっております。
偶然ハサミを発見し、そういえば、棒をいくら組み合わせても柵にならないのでイライラしておりましたが、そういえば、スケール無茶苦茶やったなと思い直してみれば、さらりと柵になるなど、ググらずとも、なんとかやっていける感はありますな。

思索は続きますが、ちょっと書けないような酷いことも多く、また、前進していくことは前進していくこととして甚だしく、それなりにいい感じです。
そういえば、前年度末、つまり三月で終わるはず(あ、これ不味いか。略)

申し訳ないが俺には必要なかった

ところで、今、古本で入手したとある本の冒頭部分を読んでいるんだけれど、これを読み進めたものかどうしたものか迷っている。
アメリカ人の詩人が書いた生き方の再構築本で、結構長い間ベストセラーになったとか。困った。
この話題、これまでのフロイト先生とオカルトとシッダールタ、あとちょっとシェイクスピアが十分カバーしてくれているじゃないか。なんだよ。
なんで、生き方の本がベストセラーになるんすかね。今ぱっと自分の本棚を見渡しても、ちょっと見当たらないというか、悪くないのかもしれないけれど薄いものを手にとって困惑しております。

なにをしたものか……

と、ここでまた、ブロックでできた例の世界に行くといろいろ問題なので、なんか別の本を読むか、なんか書くか。さて、どうしたものかというところ。
そういえば、いろいろ考えあぐねて止まっていたセーフプロジェクトを再開しようと思うのです。

ネット上の何かという意味で、他のものとさしたる差異無しといえど、世界がセーフならいいなぁということでひとつ。

2015年8月21日金曜日

日々精進と発見となにやら。部屋とワイシャツとなんとか、いえ、違いました。

流木を生ける 花屋のフジッキーと氷見の浜辺でTEDxHimiのトークイベント開催時のディスプレイについて考察した。
流木で何かしたいというフジッキーの発想があって、そこからのスタート。
前日に海岸が清掃されて、まさかの不発かと思いきや、流木が一箇所に集積されており、かえって恐縮。
生花視点での流木の良し悪し。何を見るか、どう活けるのかという話し。
 流木の白くなり死んだ木肌の良し悪し。丸くなってしまったものよりは、折れてギザギザになったところのあるものが使いやすいということ。
なんとなく、流木で皿を作るという別ミッションのことも考えながら、夕方の氷見の海岸をふらふらして、実際に浜辺に流木を生けてみた。
フジッキーも、花屋になる前は結構な舞台役者で、日本の演劇の突端付近にいた男。流木も、立てたら空間になって、人がそこに立つというイメージは十分にできたうえに、さらにその流木が生けられたか、生けられていないかという視点が入るので、とても楽しい思いをした。
人間、公園だろうか道の真ん中だろうが、それなりのスペースにそこそこの高さのものを立ててしまうと、案外そこに非日常的ななにかを見出して満足してしまいがちになるものだが、この、生けられたかどうか、いかに生けるかというクオリティの求め方があると、一気に広がりが増していくと同時に、ただ立てるなら、どんな流木が良さそうかということもわかってくる。今回海岸で得られた、我々が思い描く舞台のディスプレイに適した流木についての考察は以下。

  • 木肌は、より白い方がいい 
  • 長さは3メートル以上あった方がいい
  • 枝の折れ感が鋭い方がいい

しかし、この条件があったからといって、決して何かが狭くなったわけではない。
ただ、こんな流木を求めて、海が荒れた次の日の海岸に行くしかなくなってしまったことも確かだし、ここからさらに、これが覆る何かを発見したり、新たな境地にたどり着くことができるかもしれない。
やっぱり場そのものや場数ってのは大事だし、専門家の目やら、考察を次につなげていくことというのは大切ですな。
何かの時点ので区切りは作るにしても、それもひとつの通過点に過ぎないわけで、幾つもの仮定や考察について、取捨選択の時間を短縮し、精度や品質を高めていくには、こうやっていくしかない。
わかるわからないも、やったかやらないかだけで決まると言って過言ではないっすね。

2015年8月13日木曜日

なんだか数日こねまわしていたんですけど、持っていてもふくらんでいくだけなので、日記だよということを思い出して、ちょっと整理して放出。いつにも増してわけわからないし、まとまり無く長いので注意。血パンダとTEDxHimiは人員を求めています。

年明けてTEDxHimiの準備を本格化し、先日血パンダの公演を終え、ずっと頭の片隅で考えていたことがある。
先日、これに追い打ちをかける形で、某所でインタビューの内容から、いつから田舎はダメってことになったのか、どうやって脱出したらいいのかと、自分の中で大問題化している。
これ、前提として、土地に縛られてポータビリティを無くしてどうするって話しもセットなんで、そこを忘れない様に。
目についてどうしようもなかったものが、解決しないまま自分の中でどんどん増幅していって、本当にイライラしているわけですね。
以下、壮大な愚痴ってことで、ワロスワロスでもいいんだけど、いかがなもんだろうか。

個人的には、今どきは田舎でも特に問題ないわけで、個人的には映画を見るのが大変なだけだ。ロードショウを逃したらその瞬間に映画館で見るやりくりすらできない。これはしかしまぁ、我慢できる。
問題は人の頭数だ。
皆さん概ね「田舎でやってもしょうがない」「田舎だからいいじゃないか」とか、「こんななんにも無い田舎で……」という定番のやつに蝕まれている。
でなければあとは、周囲の雰囲気を見ての判断の結果ご一緒できないとか、俺ごときが、私ごときがというのが始まって、何かしようと言っても、そうそう順調には人が集まらない。
さてひとつなにかをしよう、そのための徒党を組もうとなった時に、必要な教養のある人間が簡単に集まることは非常に重要で、田舎では実際これがとても致命的だ。
じゃぁ、教養ってなにさって話しになるけれど、これは、なんかやるぞ。となった時に、そこに意義を感じた各々が、細かく言葉なんて通じなくてもいいから、ちゃんと正直に、我田引水をせずにみんなでどんな行動ができるか。そしてそれを実行していくうちに、何処かの時点でどのぐらい豊かな共通の語彙、認識を持つに至るか。
ここまでのプロセスに耐えられるかどうかが教養の有無のひとつの指標だと考えている。
一人で黙々と何かするんなら問題ないのかもしれないけれど、一人なら極端な話し、人類最後の一人になったとしても同じことだ。あ、流石に誇張しすぎ。

幸い、情報ならインターネットですぐに入ってくるし、今どきは一般的に中学は卒業できているので、大概の日本語は理解できる筈だ。
子どもたちが等しく妖怪ウォッチにはまる様に、大人だってなんだかんだで、いろいろな情報に触れられる筈なんだけれど、結局はどうだろう。実際、多少苦労するものには辿り着いても無かったことになるし、乗っかれる他人のふんどしならいいけど、自力で何かとなると、全くピクリとも動かない。
これは、多様化したからだと思っていたけれど、そもそもそういうもんでもない。手に届く範囲からどのくらい広げられるかってだけで、人間はそもそも一日二四時間、処理能力をフル稼働して生きていないので、知らないであたりまえだってことですよ。
見たり知ったりした瞬間に体が動くのか。そういう情熱を、なんであれしっかり培う雰囲気が田舎には無いんじゃないのか。これはなんでだろう。
仕事の休み。車。パチンコ。ショッピングセンター。禁煙。酒の量。これに、村の揉め事や祭りの話題が加わるだけでも幸せなんですけど、同じ話題がループするんですよ進もうよ。深めようよということなんですが、なかなか無いのです。
とはいえ、最近の世の中には自己肯定やら生き方のTipsやら学びの場があふれているんじゃないのかと見えるんだけれども、結局みんなで何処を見て時間だけ潰して身動きする時間を無くしているのか教えて欲しい。
何かを他所から持ってくるのはいい。どんな風にして自分の居る場所で形にするのか。完コピが上手くいくわけもないし、ただの真似だとそもそも薄っぺらくて根付くわけもないんだから、とりあえずできる範囲でいいから、ちゃんと根付くことしようよと思うわけだ。君のまわりに、君がなんか言ったりやったりしたことを区切りにしている人はいるか?そんな仲間を集めて、誰かのふんどしにそのまま乗っかるんじゃなくて、自分たちのものにローカライズして磨けているだろうか。
ナンバーワンのクオリティがお嫌だからって、オンリーワンを目指したら、それこそ圧倒的なクオリティが無いと、ものの数にも入れてもらえないことの恐怖に気づいておられるだろうか。残れないなら時間つぶしと同じで、それでもいいということは、極端な話し、人類最後の一人に以下略。

こういうのね、さて考えてみようぜとか言ったら、改めてTEDのバカ踊り動画とかで解説されても、頭にくるだけなんすよ。実際のところリーダーシップとかそういうもんでもない。
その辺の、普通に誰でもする分析はもうどうでもいいから、分析だけして踊らないことに価値があるなら、その真の価値についても厳しく問いたいものであります。
俺はそんなこんなで、血パンダ結成までは富山県内で誰一人、改めて演劇やろうってい言ってもあんまり相手にしてもらえなかった。そうこうしているうちに戯曲読んで集まってもらえたものの、いろいろ考えても、通算6年がかりぐらい。非常にありがたいことだが、やっぱり、あらぬ時間のかかりかたをしていると思うわけですよ。
さっきのリーダーシップってことでいえば、俺は血パンダの団長なんですけど、戯曲書いて演出するだけだから、役者が居ないとなんもできないわけです。大道具も制作も自分でやるとか、どんだけやねんって話しですよ。役者のみんなに言わせれば、「俺達書けないもん」って話しになるし、ほとんど場面転換も音も無いお芝居ですけど、血パンダの舞台にピッタリの地あかりを設計して調光してくれる照明さんが居たら、もっと凄まじい舞台になるんですよ。必要なのは、ナンバー2なのかと問われれば、答えは否です。
ある程度の規模にならない限り、マネジメント云々ってのは、できない、やらない奴らの戯言で、始めようやってみようって規模なら、頭働いて体動くやつが集まって何をするかきちんと考えれば、事足りるし、そういう中で長期展望っぽい種をきちんとまいていくことも、視野に入れられればいいんじゃないのかと、そんな次第。で、何処にいて、どうやって集まるのが普通なんだよ。

そうだ。血パンダは劇団員募集してます。TEDxHimiもまだまだ人員不足であります。
血パンダは演劇。TEDxHimiは例のトークイベントを実行する集団だけど、本当は、TEDの精神に従って、いろいろ活動したいところなんだぜ。
というか、ここまで書いててよくよく考えたら、ideas worth spreadingって、いいこと考えたから聞いてくれ!やってみようぜ!ってなんだか普通のことじゃないか。

2015年8月5日水曜日

もう一回、今はすっかり廃れてしまった氷見の奇祭「ブリスマス」について考えてみよう。

よくよく考えてみれば、マルクス兄弟の本を持っていたら、共産主義者呼ばわりされたなんて、悪い冗談だと思ってたんですが、どうやらそれが冗談じゃなくなりそうなご時世って理解でいいんだと、そう悟りました。
ってことで、一国一文化主義者がのしてきて、かしこくもとうとくて目が潰れるかとも思える様な、輝かしい日本のルーツをフィクションにして遊ぶな!とか言われる前に、書けそうなことだけつらつらと書いておこうと思う。

阿努の庄へのユダヤの移入

氷見界隈は古来、阿努の庄と呼ばれていた。
アヌといえばバビロニア界隈の神であり、アヌンナキの父である。古代の氷見界隈にメソポタミアからの入植があったことは、想像に難くない。
ただし、メソポタミアからの勢力は、徐々にユダヤの勢力に入れ替わっていく。
現在の氷見市中村は、阿努の庄の中心として、中村という地名になっていたわけだが、阿努の庄が春日大社の支配下に入った折に、祭神は春日さんに刷新されている。春日大社はその筋ではユダヤとのつながりが指摘されている。

ユダヤという点では、氷見には磯辺という地名もあり、磯辺神社が鎮座している。イソはイセの訛りで、こちらもユダヤ。そして石動山だが、セキドウサンと読む分にはなんてことないがこれは、イスルギと読む。ここには、イスルギヒコという神様が居たということだが、イスとくればやはり、ユダヤとの関係を見ておくのが定石と言える。
また、氷見の市街地では、京都の八坂神社を勧進し、京都同様に祇園祭りも行われているため、ここまででユダヤ系の文脈の移入は揺るぎないものとなっている。

氷見にほど近い宝達志水町にはモーゼの墓もあり、富山県の呉羽山では、世界の聖人が修行したとも言われている。

ぶっちゃけ、イスルギヒコ=天狗=イエスキリスト

あれ、ここまで書いたら後は、前にTumblrに書いた氷見のブリスマスについての引用で事足りますね。

氷見市民の男子は、16歳の冬に専用の定置網に船を横付けして、海中から直接ブリを抱き取って船に戻るという通過儀礼を行う。
昭和40年代頃までは浜から沖で撒き餌をしている船に泳いで向かい、船の付近に居るブリを捕獲していた。
網からブリを取るのは、どうしてもブリを捕獲できなかった場合に限られており、「アミ」と呼ばれ揶揄の対象となった。
山間部の村でも特定の網元に依頼して海で通過儀礼を行うのが一般的で、特別な事情があって村の溜め池で鯉で実行したものの、結局は次の年に改めて海でやり直したという江戸後期、明治期の記録が幾つか残っている。

後ろの方のパラグラフのみ引用。
結構廃れ気味というか、もうほぼやってないんですけど、富山県氷見市の男子の通過儀礼「鰤澄す・ブリスマス」なんかは、たぐっていくとマジでキリスト教起源というか、十字架になる前のキリスト教のシンボルって、魚のマークだったわけで、一緒なもんが使われてるんですけど、でもあんまり誰もその辺に突っ込まないまま下火ですよ。
ただポーンとそこにあって、クリスマスの時期にやるのに、誰も意味なんか考えないですよ。
氷見市界隈、獅子舞の時は「エイヤサー」って「弥栄」なんですけど、ブリスマスのときは飛び込む若者を鼓舞したりなんだりの掛け声「ヤーハエーハエー」ですよ。「弥栄〜栄え〜栄え〜」からの変化なんだろうなと漠然と受け止めてましたけど、ストレートに「ヤハウェ」ですよね。アイタタごめんなさいもいいところでした。

どうすかこれ。氷見市の皆さんは前向きに、この古代から続く通過儀礼、『ブリスマス』を復活させたらいいと思うよ。

2015年7月28日火曜日

菓子食う用の楊枝を作ったわけですけど、今年はわらび餅食いまくれってことか……。

午前中、金沢の山の中へ。

『里山の夏 涼を遊ぶ』
https://www.facebook.com/events/1021364201209487/

いい場所でした。街ばかりクローズアップされる金沢というか、石川県ってこういう景色を結構無造作に放り出してあって、身悶えしますね。本当にいい場所でした。や、どこの地方も一緒か?
トモル工房の田中孝明さんの新作やらなにやら。風がどっちに向くのか、個人的には孝明さんがやるとしたらどうなる?という興味本意で、見たい感じの風の様子があるんやけど、これはいつか俺の運がよければ拝めるかも。
実は、ここで同時に展示されていたガラスで、生まれて初めてガラスの作品も、ちょっと良いんじゃね?と思いました。工芸品には使い道って重要っすな。

書き起こすと比較的おだやかな一日の様に見えて、実は出力不全。
ゆっくり出力する時間が欲しいけれど、今週はそうもいかず。

2015年7月27日月曜日

やっぱり、集まれって呼びかける次のアクションが必要ですよ。次は行動。

ふと思い出した2011年の夏の読書感想文っすな。もう45にもなるんで一貫してるとは言わんすね。性根なんで、いまさら変わらんのです。

http://nakazolog.blogspot.jp/2011/08/blog-post_24.html
何百冊のハウツー本を読んでいると自己紹介する人に、「で、何に準拠しているの?」と聞いて即答できるか、本当に聞いてみたい。ただ消費する行為で何処かに流れ着くことはあっても、明確に自分を変える力なんて無いでしょ。これだって、所詮は自分の中にもともとあったものが明確になっただけですよ。そう思えば、余計に自分が何に準拠しているのか、さらにどう変わるのかってのは、非常に重要なことですが、ここまでわかりやすいと、この本だって、哲学でもなんでもないハウツーです。昔の偉い人を並べて、どうだ!読め!書け!革命だ!とか、脅迫しているわけです。
なにはともあれ、読め。で、書けよ。おまえらも。どんな状態がやばいかはこの本に書いてあるし、この後も佐々木先生が優しく教えてくれてるかもしれないから、とりあえずいいんじゃね?と、そんな次第。

読んだらからには準拠できるか?準拠できてるかどうか怖くなるくらい読んだか?準拠してるか?マジで準拠してんのか?
学んだこと、知ったことを使えるってのはつまり、自分のものにするということで、自分のものにするってことは、準拠できてるかどうかってことだよ。同化ね。同化。いや、そもそも同化なんてできないから。

で、その上でなお、「考え」「言葉にし」「実行する」わけだけれど、できてるのか。全部、自分のことになってるかしら。
と、なんすかね、娯楽の多様化って、つまりガス抜き装置の多様化なんですね。
ここんとこ、そんなことばっかり考えてるんで、そろそろこれがネタになりそうな勢いです。

どうも疲れているというか、金曜の晩に酒飲んだのが足にきての土曜。そのまま日曜日の日光に負けた感じで疲れて……。この日光で疲れた感じって、土方のバイトの三日目ぐらいまでの体の感覚なんですけど、どうもよろしくないですね。
なんか、外での活動を考えます。

2015年7月19日日曜日

三連休の低速モードで失礼します。

概ねWordpressのテンプレートを眺めていた。
なんでデザインとロジックもっと分離せんの?とか、ブツブツいいながら時間が過ぎていく、かなり薄い日々。
MTはperlでもうなにがなにやら面倒なことこのうえねぇし、Wordpressなんて昔から展開した瞬間に臓物ぶしゃーって感じで、ちょっと大きなサイト作ったら速攻重くなるしで、ずっとNucleusの方が好きでした。好きなんですよ。流行らないですね。
Nucleusってのがあって、そっち使いたいんすけどとか言うと「え、MTじゃない理由とか聞かれたら面倒じゃん。とりあえずメジャーどころ使おうよ」とか言われまくって10年ぐらい経つんじゃねぇの?なかなか難しいものですね。

長男の誕生日に伴い戦車はリモコン化。その流れで2台になった。電子工作に入り込む一歩前だが、その前にシャーシ製作の精度をもう少し向上させる必要がある。
せがまれていた妖怪ウォッチの方は、近々全バージョンのメダルが利用可能な新製品が出るとかでグダグダ。そもそもアニメーションも面白くないというか、子供っぽいダメなツボを攻めるばかりの単調さは変わらず、そろそろ飽きられて廃れてもいい頃なんじゃないかしらと思いながら見ている。

初めて脚本を書く高校生のプロットを見る。
さすがに何処で逃げを打ったかが手に取るようにわかるしダサい。見て取れた問題点は、プロットの供給元に確認して答え合わせもできたが、いくら初めてだからって、そこまで見たままというのはいかがなものだろう。
登場人物を先に設定するにしても、予め言い訳要員と見て取れる人間が居たり、起承転結やら伏線やら、どこかで聞いたような形式を意識するあまり着想が死んでいく過程をプロットの段階で目の当たりにする。
まだセリフにもなっていないのに、なんで好き好んで着想を殺していくのか、わけがわからないんだが、でもおそらく、この高校生にとりあえず最初の欲望のままに書き切ってから整合性考えたら?という指導する人とか居ないだろうし、手がかりも無いんだろうなぁ。
具体的な最初の一歩に対して、一般論が役に立たない例。
あ、しかし、ダサいのは読んでいるものがダサいんだと思う。文化的な刺激不足。

2015年7月13日月曜日

血パンダの公演『Ostinato』も無事終了で、日記再開であります。

このところ、日記書くどころじゃなかったものの、血パンダの公演も乗り切って、とりあえず書かねばということで……。
こういうのは、そのまま埋もれさせておくのでもいいんだろうけれど、まあ、一興ってことで、今回の上演作品『Ostinato』の前口上に加筆修正してアップ。
初日、6月11日の朝書いたものです。

前口上加筆修正

昨夜、ポルトガル人の写真家、ジョゼ・ペドロ・コルテスが富山県に滞在して撮影した写真の写真集が完成するからデータを送るとか言ってきまして、とりあえずpdfで見てくれ、感想が欲しいよとのことで、いそいそとダウンロードしました。 
ジョゼと最初に会った時に『現代において、悲劇は関係性の中にしか存在できなくなっている』というハナシをポロッとしたときに「なんだよ、わかってんじゃん!」的なことになりまして、こんなことが赤ん坊とか野蛮人の様なカタコトでも通じるもの不思議な気分がしたのですが、そんなジョゼから送られてきた今回の写真集のタイトルが、 
 "One's own Arena" 

ときまして、くっそ誰の?なにするんや?と、富山で見たものの写真集に付けるタイトルとしては、あまりに象徴的なんじゃないのかと思いながらデータを開きますと、写真に入り込んだ人物の視線、それを撮影するジョゼの視点にすっかりやられてしまいました。 
ジョゼの他の写真集もなかなかいい感じで、その場面に至る移動や行き当たった感触がとても刺激的なものでしたが、これはまさに、富山県で実際にジョゼがいきあったものが写っているうえに、その時間感覚が概ね推察できるわけで、これがまた非常に感慨深く、俺は一体何の夢を見させられているのかと、息を殺して見てしまいました。
なるほど、作品製作に対して共通する視点や思想ってものがあると、こんな意味ではあんまり言葉要らないものだなと感じております。 
だからって、俺が撮影する写真がジョゼと似通うかといえばそれは違うし、ジョゼも日本語で戯曲は書かないわけで、そこもまたこうやって出力することの面白いところ。ジョゼも待っているだろうから、全力で感想を返します。 
しかしまぁ、感想自体は大量に書けるけれど、英語にできないや。なかなか細部までは伝えようが無いですが、頑張って箇条書きで感じたことを伝えようかと、大量の言葉が心を渦巻いております。 
ほらほら、英語できないと損でしょ?とかいうのは、こういうタイミングなんでしょうが、これに関してはそうも思わないです。なんでかってのはまた、別の機会に。 
ああ、これも現代の悲劇が発生していく地点ですね。


仕込みの間、近所だってんで、めん八高岡店を連食してしまいましたが、どうもチャーシューに取り憑かれてしまった様です。大盛りチャーシュー飯とか食べたいっす。

二年ぶりの血パンダの公演だったわけですが、考えていることを行動に移して、どうやってクオリティを上げていくか、磨いていくかってのはやっぱり楽しいことだと、いまさら再確認したものであります。
ずっと稽古はしていたわけですが、お客さんに見せないと何かをクリアしたことにならんもんですね、やっぱり。
何をしたら何処がゴールだったり区切りになるのか、入力と出力の適切な関係とは何か、最近は学習ごっこばっかりで、手段が目的化している人たちも多く見られるので、その辺自分でも気をつけながら速度も精度もあげていきたいものです。

あ、ジョゼがpdf見ろってんで、書きそびれた日記があった(w。
書きかけのまま、ここに引用しておきます。

劇場になる空き店舗に搬入などをしたり現場で稽古してみたりで、まぁ、なにがなんだかわからなくなっております。何食か食った飯のうちの2食はチキンラーメンだったわけですが、なんというか、非常時にはこういう飯がいいものですね。
うちでとれたズッキーニとキュウリの浅漬けを安いキムチの中に放り込んでおいたやつも、なんとなく食べごろで飯がうまいです。 
ところで、血パンダにはちょっとした元手をせしめるチャンスがありまして、それ以来、なんとなくその予算で公演を回しております。過剰に自腹切ってないわけですね。
その分、もうちょっとなんかないもんかなぁと思う瞬間もあるわけですが、とりあえずはいい感じで公演にはお金かけずにやってきております。
こういうことをしているとすぐに、夢をどうのこうのとか言われるんですが、なんせまぁこういうものを苦労して作れば、なんだか報われることがあるということを知ったからやっているだけのことでしt

そういえば、血パンダは役者やらスタッフやら募集してますよ。スタッフはある程度経験あると、主に俺が助かりますが、役者はとりあえず演劇やったことない人の方が、いろいろ悩まなくて済む傾向にあります。
変に演劇の経験があると、演技に対する先入観みたいなものを手放すのは、なかなか難しい様で、と、そんなこと言って脅してどうする(w。
なにはともあれ、団員募集しています。