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2016年1月28日木曜日

TEDxHimi2016を終えて

情熱的で勇気の出るやつは、恐らくそのうちファウンダーが書くと思うので、忘れないうちに、とりあえず会場の裏方的な備忘録。
各地のTEDxから応援に駆けつけてくれた皆さんに感謝を。ありがとうございました。
特に、仕事をふらない前提だったのに、いきなり映像のオペ席に座らせてしまったTEDxKyotoの金谷さんには、タスクやら人員の最終的な管理を見ていた身として、穴があったら入りたい感満載でおります。ありがとうございました。

氷見でやる意義?

TEDxHimiは、日本海側初というだけでなく、日本の5万人規模の都市で行われた最初のTEDxらしく、準備開始当初から、こんな質問を受け続けました。
「なぜ氷見?」「氷見でやる意義は?」
お決まりだとは思います。
この質問に対しては、本当に嘘くさいところまで、どこまでも遡って最もらしいことは答えられるんですが、おそらく、この質問をする人が満足する答えが、私自身の口から出ることはありません。
氷見でやる理由もなにも、場を作り、そこに集い「Ideas worth spreading」をやれと定義されて、TEDからTEDxHimiのライセンスを受けているファウンダーが「Ideas worth spreading」やるから力貸してよと声を出しているから、それに力を貸してTEDxHimiを実行するだけのことで、それ以上の本質はありえないと考えています。
トークイベントは「Ideas worth spreading」のひとつの手段。紙を綺麗に切るのはハサミがいいのかカッターがいいのか、道具を選ぶ理由を聞かれても、適材適所でとか、手元にあるもんで切りなはれとか、カッター派ですとか、ハサミ派ですが握り鋏はちょっと……。とか、そうならざるを得ないのと同じです。
こういった戸惑いはあったものの、富山県内、氷見市内からの支援には非常に熱いものがありました。今後、いかに地元に受け入れられていくか、氷見市界隈はTEDxを開催している場所だということを、地元の皆さんに自慢してもらえるようになることも、ひとつの指標であると見ています。

初回を終えて

初回を終えて、全体のスケジュールが最低でも二週間、できれば一月半前倒しにできていれば、今見えている範囲でのクオリティの向上は実現できるのではないかと考えています。
今の時点で、やり足りないとか、もっとうまくやりたいと考えた関係者に対してはもう、このエントリーが「ありがとう。お疲れ様。次回はもっと前倒しでいこうぜ」と、これが最初の発声です。
ファウンダーも既に、次回のテーマのアイディアを思いついたらしく、そんな内容のコメントをFacebookで目撃しています。そんなわけで、よろしくね。

『トークイベントの会場の熱や圧力をどのように高めていくのか』スピーカーに対して集中せざるを得ない環境の作り方と演出の問題。
今回も、空間そのもの、開始から終了まで一貫した意図がありました。今後もそれは変わりません。
会場の制約、予算との兼ね合いはあるものの、こちらはその都度、様々なアイディアを投入できそうです。
カメラで撮影した場合にどう見えるかという問題もあります。
切り取られた絵についても、しっかりと見ていきたいと考えています。
次回からは、段取り合わせを最低でも二回以上は確保したいものです。

『参加者の会場での快適さや居心地の良さはどのように確保するか』機能的にはかなりしっかりこなせていたロビー周辺ですが、参加者に快適に楽しんでもらう、少し避難する場所としては、今回は少し手薄だったかもしれないと見ています。
会場の制約もありますが、これも今後の課題。

『ゴミの減量。そもそもゴミを出さない方法は無いのか』
参加者に提供するものの工夫も含めて、いろいろと困難は見えますが見えるものは隠れているものよりも解決は楽な筈。
全体が200人程度のトークイベントなら、完全にコントロール可能なのではないかと見ています。

私自身は、この三点についてのアプローチを中心に、今後もTEDxHimiのクオリティを向上させる努力を継続していきたいと考えています。
とにかく、私自身はそうでもないですが、スタッフの多くが半分は優しさでできていることで、悪く出た目もあるように感じています。なので、スケジュール前倒ししようぜ。
もう一点、とりあえず条件はどうあれ、なんとかするしかないという風に考えなければ、何も前に進まないということが、多くの場面で見られました。フォーマットもレシピもないなら作るしかないわけで、この模索の方法を共有することの難しさを改めて感じました。今回のTEDxHimiは、裏方としては、0から1を作る作業でもあったわけです。
当然、各地のTEDxのフォーマットをありがたく参考にし、利用させていただいたことは言うまでもありませんが、それを氷見で具体化するにはどうしたらいいのかという点での模索も多くありました。これはもう、一回やったので、ある意味クリアです。

なにはともあれ、スタートラインにはどうにか立てたわけで、早々に、次回の準備に入りたいと思います。

2015年7月1日水曜日

Facebookで狭まる田舎の社会

地元氷見を拠点に食育ボランティアをしている母のグループはどうも災難続きで、恒例となっていた市内の幼稚園、保育園の年長さんに対する魚さばき体験は市からの予算が削られて、全員に実施していたものが、半分の人数にしか実施できなくなったりしています。
なんやかんやでそれでもマメに活動はしているんですけど、昨日、夕食の折にプリプリ怒りながらなにを言いだすかと思えば、来月計画していた食育イベントで、氷見市の施設を借りることにして申し込みをしていたものが、その場所で詳細未定の大学生のイベントをやることになり、予定通り施設が借りれなくなったらしいんですわ。

既に孫を持つ歳のオバさまがたの活動ですよ。特段法人化しようってもんでも、ガンガンあちこちから活動資金を捻出してこようってものでもないので、こういう動きひとつひとつが、なかなかの運営努力の末に成立しているんだということはさておき、夕飯食いながらぶつくさ言う母親の姿がなんともいえなかったので、Facebookにそのことを書いたんですわ。
書き込みしてからプライバシー設定がなんかの弾みで「公開」のままになっていたものを、デフォルトにしている「友達」に戻すか考えたんですが、「またハゲが、わけのわからない文句言ってる」程度の影響しかないだろうってことで、放置しておりました。

結果的には42人が「いいね!」して、その日のうちにコメントも付いたんですが、今日の夕方に母から、「あんた昨日私がブツブツ言うてたこと、Facebookに書いたんけ。誰見とるかわからんから消しといて」と言われたわけですよ。
すげぇぞソーシャルネットワーク!
母はパソコン使えませんし、携帯もガラケーです。で、俺の友人で母と直接つながりのある様な人間が、母に何か言うタイミングは無いし、あったら俺にも言うと思うので、「いいね!」をした人の向こう側に居る人から、オフラインで母に書き込みのことが伝わったことになるわけですよ。

【俺】→【友人】→【友人の友人】→(オフライン)【母】

ということですね。Facebook凄いやないか。
俄然、やる気が出るというかですね、やればできるということを実感したわけですが、問題はそこじゃないんすよ。
当然、アホな話しを聞けばアホだなぁと言うのをやめる気はないんですけど、どっちかといえばそもそも、このエントリーの力点は後半約140文字。引用するならこちらですよ。

トトボチを利用したトト夏カレーというのを見る度に、憤慨しながら飯を食う母を思い出す可能性を孕む、プルースト感の強いエピソードをわざわざありがとうございます。おお、母が孕むとしたら、生まれるのは弟か妹かどちらだ。
そんなこんなで、夕飯が何処に入ったやらわからなかった現場からは以上です。

この渾身の「またハゲがわけのわからないことを……」パラグラフが、全くなんの役にもたっていなかったことの方を嘆きたいわけです。修行足りんかった!
最近、プルースト使いすぎたか、しかもトト夏カレーってあんた、紅茶にもマドレーヌにもひっかからんやんけとか、「俺」が思い出す可能性を孕むのに、「母が孕む」と運んだのが無理筋過ぎたか、でも、そこは45歳からのエディプス・コンプレックス割引とかあって然るべきなんじゃないのかと、悶絶したものであります。
結果的に、母からの「消して」というありがちな反応どころか、Facebookで友達関係にもなっていない、子どもたちの食育よりも詳細未定の大学生のイベント(母からの伝聞)を優先した、氷見市の施設の方から謝罪メッセージまでいただいてしまうという、意図しないどころか、そこ俺になのかということも少し含めて、本来あってはならない事態に至っており、なんというかまぁ、人間なにごとも精進を怠ってはならない。私もまだまだです。
生きていかなければ、生きていかなければねぇと、プルーストがダメならチェーホフを思い出す、そんな一日でした。

2015年6月12日金曜日

文化とはなにかについて考えさせられている

食育サポーターというのをやっている、うちの母から聞いた話し。
ちょっと前まで氷見市では市内の年長さん全員に魚の捌き方を教えるというのをやっていた。市から予算もらっていたものだが、去年からこれがカットされて、年長さん全員ではなく、一部の幼稚園、保育園で実施、人数にして半分ぐらいの年長さんにしか魚の捌き方を教えられなくなってしまった。

教えていくなかで、魚の味噌汁を作ったりもするんだけれど、捌いた末の刺し身やら骨やらが、調理後の魚と同じものだと認識していないというのはよくある話し。そもそも味噌汁を飲んだことないので、飲みたくないという子供も居るというのだから、なかなか食育も侮れない。
氷見界隈ではそもそも、魚の味噌汁はお椀ではなく、「ちゃん鉢」という深皿によそわれる。魚の身が食べやすいようにということらしいが、そもそも同じ富山県内でも「ちゃん鉢」が通じない場所もあるわけで、何かしら次世代に伝えていったら良さそうな文化だ。

母とは別ルートで聞いた話しによると、氷見市は今後「魚食文化をリードする」というブランドイメージを定着させていくべしということになっているらしい。
昨日とれた魚に見向きもしない氷見の魚食文化を以ってして、何をどの様にリードしていこうというのかと、そこは気になるところ。加工業も存在してはいるけれど、実際に「食文化」として家庭に根付き、受け継がれている魚食にどんなものがあるのかと、振り返ってみると、果たしてなにをもってリードとするのかの定義すら怪しい気もしている。
皆無ではない。
魚の捌き方ひとつ取っても、そもそもが漁師の娘で、既に六十歳を過ぎているうちの母が、「思えばこの魚、もう少し上手く捌ける気がするんだけど、なんか包丁の入れかたあるの?」と伯母に聞く場面を見ることがある程度には、普段から魚を食べている。
が、「魚を食べる文化」と呼べるもの、そう定義しようとしているものの受け皿の有無については、非常に疑わしい。
それこそ、捌き方なんて園児全員に教えるまでもないので、予算カット。という市の判断もやむを得ないと思われるくらい。魚自体に対して豊か過ぎるのではないかと考えている。
母によれば、予算カットの理由は、「毎年工夫もなく同じことをやっているから」だそうだ。
ストレートにやればそれでいい。仕事は要らない。昨日の魚は干物にもしない。この豊かさで何をリードするのか。刺し身が食べられないなら昆布締めにすればいいじゃない。というマリー・アントワネットの様なことでは冗談にもならない。

だが、氷見の食の豊穣さについては疑う余地はない。
味噌汁を飲んだことのない子供が居る一方で、日常、氷見産の煮干しで出汁を取り、自分で栽培した大豆で仕込んだ味噌で味噌汁を飲んでいるという家も、一定数存在している筈だ。うちも、大豆が自前のものではない年も増えてきたが、ずっと自家製の味噌を仕込んでいる。
このコントラストをどうにかするのは誰の役目だろう。
食卓の自給率の様なものを指標に取れば、簡単に氷見の豊かさや様々な分野にまたがる特徴や努力目標が見えてくるし、数字として把握もできる。

つまるところ、ありそうに見えて、実は無かったものに邁進するのは、上っ面だけの大甘な分析を基板にしているからなんじゃないの?と、その点を強く疑うものだ。
今後の動きについても見ていきたい。それと、今年、そのつもりで準備していたのに、結局大豆をスルー。来年植えねばと反省しているところ。実は、味噌が足りなくなってつなぎで買ってきたやつが不味かった。こういうことではいけない。

2015年5月12日火曜日

ぼちぼち始動

昨日からTEDxHimiのパートナー候補への接触を始めている。
組織との最初の接触で、接点となる個人に最初になにが伝わるのか。彼、彼女がTEDを知らない場合、パートナー=運営資金の寄付と捉えた場合。
TEDを知っていたとしても、例えば、自分たちは十分ビッグネームだから、身銭は切らないけど名前だけ貸してあげるよときた場合。
接触した相手からなにが出てくるか、自分たちがなにを引き出せるか。お互いのクオリティについての考察や、熱意の行方めいたことについても随時考えていくとして、当然、TEDxHimiのチームのクオリティの向上についても考えていかなければならない。
なんだか、否応なく具体的にスタートしてしまったので、一応書き留めておく。

2015年1月26日月曜日

TEDxを富山県というか、氷見市で実行する準備が始まっております。

TEDxやるので一緒にやらんかねというお話しです。
ガイドラインも過去の記録もあるので土俵としては万全だし、相手はいきなり世界なんで、ちょっと気持ちが奮い立ちませんか?と、そんな趣旨です。

実は結構前からTEDxをやろうぜという話しになってまして、ついに本格的に準備を始めているわけですが、なかなかどうして手が足りないのであります。
今なにが問題って、デザイナーがいないんですよ。あと、スピーカーを選んでくる目を持ってる人というか、今もみんなでがんばって探しておるわけですけれども、世界に広めるべき素晴らしいアイディアをシェアしてくれる人ってのを、とにかく見つけねばならんなぁという前に、「よし、この人は掛け値なく凄いはずなんだけど、コンタクトとっみてどうすっか決めようぜ」って話しがしっかりできる人ですね、マジでもう選んでくる前の段階なんですけど、これがまたなかなかどうして難しいのであります。できる人を探してます。
いやいや、そういうピンポイントな分野の頭数だけじゃなくて、準備のメンバーが全般的にちゃんと足りているのかって話しは無論あるんですが、TEDxの「いけ好かない」サロン遊びの趣旨をきちんと理解して、世界の土俵に乗る覚悟のある骨のある人はおらんものかということであります。

本当に繰り返しになりますが、今の時点で具体的に足りないのは、特にデザイン面できちんと制作ができる人と、スピーカーをキュレーションする人です。
当然、手弁当だし、仕事じゃなきゃヤダって人は、なんかほら、他のプレゼンイベントでお金の匂いのするところに寄り付いていけばいいんですよ。世の中にはいくらでもあるし、そっちの方が健全だとかそういう意見もあるかもしれない。
なんでこんなことを考えたかというと、先日なんだかんだでしっかり参加できなかった準備のためのミーティングの報告を聞いていて、非常に座りが悪いというか、TEDxを準備することの全ては、プロボノとかそういう言葉ですらなくて、TEDのガイドラインをクリアしたら、いきなり相手が世界になる。そんな遊びの土俵に乗ることに楽しさを見出せるかどうかなんだって話でしょ?
と、そういうところを共有するところからしっかりスタートしていかなれば、きちんとしたクオリティのものにならないというか、ガイドラインやら世の中に流布しているTEDの動画見てみなさいよと、厳しいものもあるけど、既にあるもののクオリティは、それを超えるために存在していると思えばですね、俺たちのミッションは今はなんだよ。と、きちんと問うておく必要があると見たわけです。

そんな場所にですよ。なんだっていいじゃないプロボノだものって感じでですね、トークイベントなんでイベント運営のプロとかいう人に加わってもらったとして、その人がTEDxやるってことについて、しっかり考えてなかったら、たかだか200人とか300人しか入れられないイベントのために「宣伝も得意ですよ。お客さんに訴求して周知して……」とか、そんなことを口走ったりする場合があるわけです。そうじゃなくてもいきなり、やっぱり会場が一体になって泣く感じじゃないとダメでしょとか、そういうなんでしょう。イベント系やら広報系の例をあげちゃいましたが、学生のボランティアだって一緒ですよ。何処から話を詰めなきゃいけないのかわからないレベルの人のプロボノなら、まず、プロボノとかいう片仮名使う前に、もうちょっとケーススタディを済ませるとか、自分磨きでもしなさいと、そういう話しなわけです。
きびだんご無しで仲間になれるならオーライ。欲得ずくなら必要以上にクオリティは高くないとというか、その欲の炎を超えてこっちにち来いということです。
日本のクソ田舎のTEDxだと思ったら、なんだこのクオリティは!っていうか、日本人じゃないから不勉強なだけで、日本国内ではこの地方都市、重要なところなの?ぐらいの認識をTEDの動画が好きな人たちに持ってもらう必要があるわけですよ、やる以上は。
こういうこと自体が面白くないなら、そこまでであります。今風に言えばブラックっぽいんですが、すり減る人にもオススメとか、そういうんじゃないんで、はい。
世界に広める価値のあるアイディアを氷見から流布するためのビジュアルを、さらっと俺、もしくは私のデザイン力でカバーしてやるぜ!って人、居らんかね!なんか、いきなり世界に晒される土俵あるんすけど、どうですか?って感じで、よろしくお願いしたいっす。

2013年10月12日土曜日

小ネタを深堀りする観光情報発信

ここにはなにもない。
多分、観光地ではない田舎でよく聞かれる言葉だ。少なくとも、富山県氷見市では氷見には何も無いという人間が多い。こんななにもないところに来てもしょうがない。
日常生活を営む場所で、いちいち見どころを求めて生きている人間は少ない。だから、これはやむを得ないことだ。
高度に観光地化されている場所の住民と、そうでない場所の住民はそこが完全に違い、観光地でない場所に住んでいる人には、敢えてこんな問いかけが必要になる。

「本当になにもないのか?」

氷見市に一体何があるのか。それを細かく掘り下げてみよう。細かなディティールを明らかにすることで、多くの糸口のようなものが見つかる。それを丁寧に発信すれば、氷見という地域そのものに好奇心を刺激される人間に届く。今はそんな時代だ。
ただ漠然と訪れるのではなく、最初からディティールに目がいく様なイントロダクションから始めてもらえば、飯の記憶でも宿の記憶でもなく、そこで過ごした時間全てを持ち帰ってもらえる筈だ。
過ごした時間の記憶の長さと質。これもまた、観光地とそうでない地域には大きな違いがある。
こんな見方をするなら、可能性は何処にでもあると言える。氷見以上に小ネタの宝庫といえる土地もあるものと思う。結局のところ、どんな趣向で日常の時間から離れる手伝いができるか。そこに尽きるし、実際にはそれ自体がとても大きな問題だ。
なにはともあれ、そんな視点でスタートしたからには、これまでと違うものを見る手がかりになるものと考えている。

氷見の小ネタをどんどん叩き込んで行く場所「ひひひひみ」Web版
(残念ながら、ドメインが失効して過去に葬り去られている様です。役所の単年度の事業なんてそんなもんですかね……。)

2013年7月29日月曜日

背伸びについて考える。

十数年ぶりに劇団を結成して、会場で大道具を制作しているところに、母校の美術部の生徒達が、顧問の先生に引率されてやってきた。
公演は、地元のアートNPOが開催する展覧会に参加している関係で、他の美術作品と同じ場所に舞台を作る。美術部はなんでまた、ぞろぞろとこの場所にやってきたものか、詳しくは聞かなかったが、顧問の先生に作品についてさらっと解説してほしいと言われたので、さらっと解説して、自分で複雑な気分になった。

解説は、概ね以下の感じ。

演劇というのは、大昔は「憎い!殺してやる!」「大好き!死ぬしかない!」という、ものすごい感情で成立していました。
ところが、随分最近になってベケットっていう人が「明日、あのオッサンが来なかったら死ぬしかないね〜」って感じで「待つ」というかなりテンション低い感じでもいけるんじゃね?ってのが提案されて受け入れられて、おお、すげーってなった。
ここから更に現代に進んで、もう、誰かの固有の感情で一本のお話しになるなんてこともなくなって、登場人物の関係性の中で何か描いていくしかないんじゃないかってのが、この劇団血パンダがやっているお芝居です。
今回も、もう無くなっちゃうんじゃないかって仕事場で、皆がそれぞれいろいろ考えてるんだけど、お互い、話しが通じている様に見えて、それぞれ全く違うことを考えていたり、似た様なことを考えている人間が直接ハナシができなかったりと、そんな内容です。基本的に大事件とかありません。
「なんでハナシが通じないの?」とか、「なんで、この間と今、言ってることが違うの?」って気持ちになったことのある人には、丁度いいかもしれないけど、ひょっとしたら、目の前で人が喋ってお話しが展開しているのに、なにがなんだかわかんないってことが起こるかもしれない。

ううん。ぜひ、背伸びしに来てください。

とまぁ、なんだろ。何を喋っとるんだと、俺はと、そんな次第ですよ。
思えば、高校生の彼女たちがこれまで読んだ物語の中に、果たして「憎い!殺してやる!」とか「大好き!死ぬしかない!」ってのが軸になっていないものって、どのくらいあるんだろうか。
強烈なエゴというか、優れた感情というのから脱して展開している物語とか、ちゃんと読まれているだろうか。
背伸びしに来てくださいというのは、数十年前の自分の身に覚えから口走ったもので、背伸びしたい高校生が居る前提ではアリかもしれないけれど、ジャンルの歴史とかどうでも良くなっていたり、莫迦でもオッケーなのが善ってのが、消費側の是になっている雰囲気の今時はどうなの?と、そんな風にも考えてしまう次第。

いや、がんばります。言葉は通じないものだし、戯曲とメソッドは厳しく日本語の現代劇を模索しているけれど、役者が演じているところから更に何か拾える余白があるのが演劇の筈。

そんなわけで、誰にも期待されない場所で、ひっそりと前衛の模索、再開しました。
 劇団血パンダ・トライアル公演「発見」
もうすぐ初日です。

2013年5月18日土曜日

問いに対しての返答と、何を問うかということについて考えたはじめたまま迷走

先日、氷見にフィールドワークに来ていた大学生と雑談する機会があり、なんとなく心にとまったのでメモ。
全体、まとめには至っていないので注意。

商店街は本当にしょんぼりしているのか

彼女は商店街の活性化を題材にして論文を書く予定で、氷見に取材に来ていた。今後もフィールドワークを継続していくとのこと。
氷見の商店街は現在、氷見出身の漫画界の大御所、藤子不二雄A先生の作品を使っての町の活性化の試みを実行している。5月5日には藤子不二雄Aワールド祭りということで、市役所、商工会議所、商店街が一体になってイベントを実行している。今年は6年目にあたり、普段とは違うにぎわいを見せている。
商店街の活性化の試みとしては様々な努力がある筈で、人が出て楽しむこともひとつのきっかけにはなる筈だ。
しかし、氷見の商店街は普段はがらんとしている。人出が無い。人出の無さにめげる観光客が居るぐらいに、長大なアーケードを歩行する人が居ない。
人口が減り、商店街に用事のある人自体が少なくなったこと。路上駐車で自動車を目的地に横付けするので、そもそもアーケードを歩かないことが、現象としての人影の少なさの原因だと考えられる。
人影は見えなくても商店街が全滅しているわけではない。シャッターが降りていたり、そもそももう店舗ではない構えになっている家はみられるが、粘り強く活性化の試みができて、イベントも実行できるだけの元気さもある。つまり、まだ成立していて危機感を抱き、行動できているということだ。
全体の売り上げや中心市街地からの税収や、アーケードに面している建物の種類から、厳密に判断してからシャッター街かどうかは判断してみても良い。シャッターが降りているのは目立つ。それに加えてシャッター街という言葉にイメージを操作されていないだろうか。

その場所に何が必要なの?という問いかけ

まちおこしというキーワードに慣れ親しんでいる関係筋が、現在どんな雰囲気を共有しているのかについて私自身は全く知らないが、氷見においては、数年前に町おこし、空き店舗利用というキーワードの元に、試みとして作られたカフェが幾度か経営する人が変わって、最終的に店として定着していないことが強く印象に残っている。
最近も、氷見に近い新湊でも、まちなかに新たにカフェを作っているので、空いた空間に人の憩う場所を設けるということで飲食店を開設するという動きは一般的な選択肢として、実効力があると考えられているものと思う。
憩いの場所があればというのは、声も出るし誰しも考えることだが、どんな場所が必要か、それが自力で経営を持続できるのかについては精査する必要があるものと考える。
氷見では間に合わせの憩いの場の必要が無い程度に、中心市街地の飲食店は充実しているし、個々の努力は普通の営みとして継続していると見て良い。
結局、呼び込むべきは誰で、何処に向かって石を投げ、意見を吸い上げるのかという繰り返しの手がかりを何処に求めるのかという点で、他の地域の成功例を何処まで参考にできるかということには注意が必要だ。
次に全くつながらない、次が考えられない失敗だけが害悪で、それは避けなければならない。

活性化。個、全体。店、客。

先の学生さんがインタビューした中に、商店街のイベントに対して非協力的な店舗の意見を拾ったと聞いた。
商店街の一員として、イベントに非協力的というのは、一見、活性化に対して非協力的であるという判断をしてしまうが、実際はどうだろうか。
具体的には、しっかり対象を絞って経営している高級路線の店が、ワンコインで通りすがりの人々を相手に何か商品を提供するというイベントに、果たしてすんなり参加できるかという話しだ。これは当然、個々の店とコミュニティとしての商店会との関係性の問題であると同時に、店の余力の問題、店のイメージづくりや経営方針の問題も関係してくる。
その店舗自体が、人を寄せるという商店街の流れとかけ離れた顧客を相手に商売をしているとしたらどうだろうか。あらゆるビジネスが万人に親しみやすい必要は無いし、商店街の中にも当然、高級路線の店があってもなんの問題もない。
品質がよく、安くなければ売れないという先入観によって、実際のところ、高価で高品質なもの。いわゆる一生ものとか、祖父から、父から譲り受けたものという代物がすっかりなくなっている。
地域に密着した商店の力、役割とはなんだろうか。

2013年3月25日月曜日

とりあえず、候補者に質問状を出してみた。話しを聞く会を開催するのでみんな集まれ!

『氷見市長選立候補予定者に話しを聞く会』を3月26日の20時30分から光照寺の本堂で行います。光照寺、いわゆる「たこはん」です。入場無料。お気軽に。
氷見市の市長選に関して、候補者が準備した話しばかり聞いていてもしょうがないので、いろいろと頭を捻ったり、SNSでネタ募集したりして質問状を作ってみた。
募集に反応してネタを提供してくれた皆さん、感謝します。

そもそもの打ち明け話しだけれど、光照寺の前住職が「今回の選挙は両陣営縁が深くて頭痛い」という言葉尻を捕まえて、「じゃぁ両方の候補から話し聞く会とかやったら、ふんわり中立地帯っぽくならないですかね」とか、滑り込ませていただいた次第。言葉尻捕まえて面倒なことをお願いした上に、ブログでまで書いてしまって大変申し訳ない。

こういう会自体、うさん臭く感じたり、何が背景なの?アカ?とか気になる人も居るだろうから先に断っておくけれど、私個人的には政治的にも宗教的にも氷見市民の標準に近い環境に居たものと自認している。こんな感じ。
浄土真宗大谷派で、爺さんが自民党員だったことは覚えている。既に引退したけれど、爺さんの弟に富山市南部を地盤にした北電の労働組合出身の自民党県会議員をやった人が居る。
背景的には特段突飛なところは無いし、これをきっかけに利用して洗脳したり壷買わせたりする意図も無いし、無闇に「市民」ぶったりする気も無いと、納得してもらえればなにより。
氷見市程度の小さな市の市政ぐらい、そういうのが好きな人に任せておけばなんとかなるって状況でもなさそうだし、ちょっとなんとかならないのかということで、田んぼつながりで『自然農むすびの会』を主催している泉さんと協力しつつ、先のたこはんの前住職の話しなど、様々なタイミングが合って、こんな流れになった次第。
滅多に無い機会だけれど、今後、こういうのが定着するきっかけになれば、もうちょっと雰囲気が良くならないだろうかということを願いつつ、以下は質問状。

回答をいただけたら、告示まで短い期間だけれど、それも公開します。



質問状

 氷見市において15年ぶりとなる市長選が行われます。氷見市民としては、この激動の社会情勢の中、氷見市が今後どのように舵取りをしていくのか非常に気になるところです。
 財政難・地元産業振興・少子高齢化など、氷見市でも他の多くの地方同様に問題は山積みです。
 3・11以降、国民一人一人の意識には様々な変化があります。防災の面だけを見ても、これまで氷見市で意識されていた山間部での地滑りの対策に加え、津波対策や、志賀原発から30km以内の範囲にあることが改めて意識されはじめています。
 そこで、次期市長に立候補されるお二人の、氷見市政に対するお考えを伺う機会を作れないかということで、話しを聞く会を企画し、ソーシャルネットワークなども通じて、市長立候補予定者への質問を募集。10の質問にまとめました。
 非常にお忙しい時期かとは思いますが、ご回答のほど宜しくお願い致します。

  1. 今後、氷見市における豊かさは、何が基本になるべきとお考えでしょうか。
  2. 豊かさを獲得するために、何を実行していくことになるとお考えでしょうか。
  3. 氷見市の中心市街地の活性化は、今後どうあるべきとお考えでしょうか。
  4. 今後、氷見市の財政はどのような手段で立ち直っていくべきとお考えでしょうか。
  5. 国の政策が氷見市に及ぼす影響を、どう受け止めていくべきとお考えでしょうか。
  6. 氷見市における少子化、若者の定着についてどの様な対策をお考えでしょうか。
  7. 震災以降、話題になっている再生可能エネルギーについて、今後氷見市としてどの様に取り組むべきとお考えでしょうか。
  8.  現在福島で起こっているレベルの原発事故が発生した場合の対策について、どうお考えでしょうか。
  9. 志賀原発30km圏内の市政をとるにあたって、福島の事故に対してどんな見解をお持ちでしょうか。
  10. 志賀原発の再稼働に対しては、どの様なスタンスを取るべきとお考えでしょうか。

   
                  氷見市長選立候補予定者に話しを聞く会
発起人 仲 悟志、泉 誠

氷見市長選挙が15年ぶりに行われるわけだけれど、起きている波の割に微妙な状況に見える。


氷見市で15年ぶりの市長選挙が行われる。
保守系の分裂から選挙実行の流れになったものだが、現在の市長の後援会などで組織する後継候補選考委員会というのが、新聞報道されるくらいの勢いで動いての結果だということで、これが丸く収まっていたら、無投票で新市長が決まっていた可能性もある。

3.11以降とはよく耳にするが、果たして氷見市で何が変わったのかといえば、志賀原発との距離を再認識させられたことも含めて、何も変わっていないのではないかと思わせられる。
隣の高岡市で震災の瓦礫を受け入れるという話しの果てには、高岡市とその周辺でつくる広域圏のゴミ処理施設の建設という大きな金の行く先が存在があり、それは氷見市内に建設される。氷見市民の中に、震災瓦礫の受け入れに対する当事者としての意識はどの程度のものとして捉えられているだろうか。

ただでさえ結論の出にくい原子力絡みの問題があらわにしたことがあるとすれば、氷見市においては、結局3.11以降も、それぞれの人間関係の中で、声の大きい人間の影響力に準じて、「煙たい話題なので触れない」から「納得したから何か行動しよう」までの反応の濃淡があり、何らかの使命感や当事者意識、自分の意見を持てなければ、とりあえず同調しておくけれど行動はしない。3.11以前と全く変わることのない日常が営まれていると見て良いのではないだろうか。

それでも、これまで全く目が向かなかったことに、目を向けざるを得なくなったということはある。先ほどあげた反応の濃淡の一番淡い部分から、「全くなんの関係もない関心が持てない」が無くなっただけでも、十分な意識の変化と捉えることもできる。
ただ、こんな状況ですら、無投票で市長が決まる瀬戸際だったことには変わりがない。今もなお、声のでかい奴らに任せきりにしてなんとかなるという状況なのか、なんとなく景気が悪いどころではなく、自分の懐事情のみならず、住んでいる市の財政までもが思わしくないということに、どれだけの氷見市民が具体的な危機感を抱いているのか、そもそも、その危機感、不安から何をどう捉えて行動することが正しいのか。
実際のところ、誰にどんな質問をすればいいのかすらわからない。そんな状態ではないだろうか。

立候補予定者の二つの陣営が活動を始めてから早速はじまったのは、こんな義理があるので応援しなければならない。こんな関係があるので応援しなければならない。だ。これならまだ、選挙のたびに勝ち組負け組に分断されて敵味方が明確になり、実弾が飛び交う地方の方がまだ解りやすいのではないかと思わせられる様な、5万人程度だとこの狭さかという社会の構図を露呈している。

この選挙でしっかり選択しなければ、確実に氷見市は終わるのではないかと考えている。どちらを推さなければどうなるという話しではなく、むしろ、投票する側が選ぶ習慣を獲得する必要があって、このタイミングを逃しては次が無い。
そして、氷見市の保守系の御歴々も、保守の分裂という、嘘だとしても終わればノーサイドと言いやすい状況を利用して、選ばれるという癖を付けなければ、適者生存の理にかなった人材の切磋琢磨も無いのではないかと考える。
票ばかり読んでいないで、候補者を見て品定めしてくれよというメッセージをきちんと市民に届ける緊張感を持てば、小さな市の状況なんてものは、結構簡単に変わるのではないかと、今回の選挙の流れで体感される氷見市の狭さから、強く感じている。
住民の意識が変われば、何も起こらないなんてことは無い筈だ。