2013年5月18日土曜日

問いに対しての返答と、何を問うかということについて考えたはじめたまま迷走

先日、氷見にフィールドワークに来ていた大学生と雑談する機会があり、なんとなく心にとまったのでメモ。
全体、まとめには至っていないので注意。

商店街は本当にしょんぼりしているのか

彼女は商店街の活性化を題材にして論文を書く予定で、氷見に取材に来ていた。今後もフィールドワークを継続していくとのこと。
氷見の商店街は現在、氷見出身の漫画界の大御所、藤子不二雄A先生の作品を使っての町の活性化の試みを実行している。5月5日には藤子不二雄Aワールド祭りということで、市役所、商工会議所、商店街が一体になってイベントを実行している。今年は6年目にあたり、普段とは違うにぎわいを見せている。
商店街の活性化の試みとしては様々な努力がある筈で、人が出て楽しむこともひとつのきっかけにはなる筈だ。
しかし、氷見の商店街は普段はがらんとしている。人出が無い。人出の無さにめげる観光客が居るぐらいに、長大なアーケードを歩行する人が居ない。
人口が減り、商店街に用事のある人自体が少なくなったこと。路上駐車で自動車を目的地に横付けするので、そもそもアーケードを歩かないことが、現象としての人影の少なさの原因だと考えられる。
人影は見えなくても商店街が全滅しているわけではない。シャッターが降りていたり、そもそももう店舗ではない構えになっている家はみられるが、粘り強く活性化の試みができて、イベントも実行できるだけの元気さもある。つまり、まだ成立していて危機感を抱き、行動できているということだ。
全体の売り上げや中心市街地からの税収や、アーケードに面している建物の種類から、厳密に判断してからシャッター街かどうかは判断してみても良い。シャッターが降りているのは目立つ。それに加えてシャッター街という言葉にイメージを操作されていないだろうか。

その場所に何が必要なの?という問いかけ

まちおこしというキーワードに慣れ親しんでいる関係筋が、現在どんな雰囲気を共有しているのかについて私自身は全く知らないが、氷見においては、数年前に町おこし、空き店舗利用というキーワードの元に、試みとして作られたカフェが幾度か経営する人が変わって、最終的に店として定着していないことが強く印象に残っている。
最近も、氷見に近い新湊でも、まちなかに新たにカフェを作っているので、空いた空間に人の憩う場所を設けるということで飲食店を開設するという動きは一般的な選択肢として、実効力があると考えられているものと思う。
憩いの場所があればというのは、声も出るし誰しも考えることだが、どんな場所が必要か、それが自力で経営を持続できるのかについては精査する必要があるものと考える。
氷見では間に合わせの憩いの場の必要が無い程度に、中心市街地の飲食店は充実しているし、個々の努力は普通の営みとして継続していると見て良い。
結局、呼び込むべきは誰で、何処に向かって石を投げ、意見を吸い上げるのかという繰り返しの手がかりを何処に求めるのかという点で、他の地域の成功例を何処まで参考にできるかということには注意が必要だ。
次に全くつながらない、次が考えられない失敗だけが害悪で、それは避けなければならない。

活性化。個、全体。店、客。

先の学生さんがインタビューした中に、商店街のイベントに対して非協力的な店舗の意見を拾ったと聞いた。
商店街の一員として、イベントに非協力的というのは、一見、活性化に対して非協力的であるという判断をしてしまうが、実際はどうだろうか。
具体的には、しっかり対象を絞って経営している高級路線の店が、ワンコインで通りすがりの人々を相手に何か商品を提供するというイベントに、果たしてすんなり参加できるかという話しだ。これは当然、個々の店とコミュニティとしての商店会との関係性の問題であると同時に、店の余力の問題、店のイメージづくりや経営方針の問題も関係してくる。
その店舗自体が、人を寄せるという商店街の流れとかけ離れた顧客を相手に商売をしているとしたらどうだろうか。あらゆるビジネスが万人に親しみやすい必要は無いし、商店街の中にも当然、高級路線の店があってもなんの問題もない。
品質がよく、安くなければ売れないという先入観によって、実際のところ、高価で高品質なもの。いわゆる一生ものとか、祖父から、父から譲り受けたものという代物がすっかりなくなっている。
地域に密着した商店の力、役割とはなんだろうか。

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