いろいろ手伝っていただけるとありがたいので、案内はその都度。
2016年8月26日金曜日
力加減について考える
いろいろ手伝っていただけるとありがたいので、案内はその都度。
2015年12月25日金曜日
その火を飛び越して来いと、初江が言ったのとは全く関係のない話し。
こちとら、自分が楽するためのスクリプトとかを、稀になんとなく数行書くことがあるだけで、プログラマーじゃねぇから、とにかくちゃんと拾えるのかどうかってレベルから、いちいちおっかなびっくりよ。
もうね、関数リファレンスとか見ながら、あー、やべー。でも、これはもうwhileの中なんだし多分これで回せば全部取れて、出力も……。
とかやるわけですよ。思ったものが拾えました。出ました。出た。
でもね。なんでコンマで区切って出力するの?やだ、そんなことお願いしてない。
というか、いろいろそういうのをfunction.phpで定義しないためにもプラグインに頼ったりしたわけですけど、これに関しては、そちらも守備範囲の外なの?と、暫く悶絶します。
しょうがない。出てるもんは入れてる筈だから、こいつの形をデフォルトで定義している場所に行き当たれば、思ったとおりにできる筈!どこやねん!
というか、そんなわけでWordpressCodexで言及されてるファイルに行ったら、確かになんかそれらしいことは書いてあるけど、コンマは何処に消えた。もっと奥なのか!Wordpressの奥の奥か!
絶望して別の方法を探すわけですけど、それがあなた。
探して試したら一瞬でポンですよ。だって、そっちの方法なら、自分でその場で出力を定義できるわけで、今までforeachとかね、配列に突っ込んだりしていたのそれがあんた、ほんの一行やないか……。いえ、それが関数ってもんですよね。細々とした手続き、ありがとうございます。
- キーワードをそのものズバリしか知らないので、直に触る方法を発見してそいつをこね回す。
- そうこうしているうちに、別の言葉も発見して、もうちょい便利にやってくれる方法を見つける。
支配されろ!この幸福に飼われろ、って、そうですよね。仕組みを選ぶってのはそういうことでした。
雑念が多すぎて、プログラマー全然向いてないと言われたもんですが、ひしひしと噛み締めてしまいまうクリスマスイブでした。
2015年10月2日金曜日
村の祭りと連休があったと思ったらもう10月ですが、なんだかこのところ無目的にStory Cubesを転がしております。
もうね、人手不足が深刻で、来年から練習に加わって獅子頭まわさないかという話しが出る始末、私、地元を長く離れていたので、一部のふりしか覚えていないどころかひたすら怪しいんですが、さてまぁ、これは来年の話しですな。
連休はもう、食い物と酒を持ってきなはれ、こちら火を絶やさず待っておりますという方式で、だらだらBBQをしてすごしておりまして、筋肉痛と胃もたれの日々でした。
Rory's Story Cubes
アマゾンで見かけて、ちょいと興味が沸いたのでポチったんですが、これがなんとも面白いのです。サイコロに、数字の代わりに絵が描いてありまして、そういうのが九つあります。そいつを振って、出た絵を元にお話しを作るってのが基本的な遊び。
いろいろ勝手に考えて遊びなはれというのも推奨されております。

で、これで「むかしむかし……」という語りだしでお話しをしなはれということなんですが、子供らと遊んでみたところ、非常に食いつきがいいというか、バカウケでした。
とりあえずお話しを「むかしむかし……」から始めろということになると、刷り込みは怖いもので、さらっと「○○が居ました」と続き、話しはすんなり転がり出します。
ただ、なんだかんだで「旅に出る」「お供の何かと一緒になにかする」というパターンに陥ってしまいがちなんですが、これはなんというか、難しく考えたら負けというか、行きあたりばったりで苦笑いが一番かしらと見ています。
ワンパターンになって、どうしても面白くなくなってきたら「旅に出る」のは禁止っすね。
大量にくだらないお話しを粗製濫造していて、なんかの拍子に、思わぬいいオチがつくと、思わず「おー」と声が出ます。子供とやっていて、本人も思わぬいいオチが付いて拍手してしまうこともありました。
何種類か追加セットも発売されている模様。暫くは楽しく遊べそうです。
2015年9月10日木曜日
この日記よりも、セーフプロジェクトのブレイクの方が本望なんだと、かなり真面目に思案しています。
とはいえ、ただの日本語の平仮名だというのに読めないというのは問題じゃないかと考えるところのものであります。
ところでこの間、飽きるまで引きこもろうと決めまして、とりあえず引きこもっています。
家で仕事してるんで、引きこもりもなにもないやろって話しではあるんですが、そう定義してFacebookとかも連携しているサービスからの投稿とかはやってるんですが、特段見ていなかった、Facebook自体になにか投稿するってことは停止しております。
そもそもやっぱり、Twitterの方が居心地いいっすよね。
こういうことすると、すわ情報の絞り込みかライフハックか引き寄せかということ勘ぐる人も居るかと思いますが、アホかという話しでして、引きこもりは引きこもり。ただの引きこもりであります。仕事して勉強して遊んでたら出かける時間なんてねぇんだよ。1日40時間くれよ責任者出てこーい。
そういえば、先日から日本サービスが始まって、絶賛お試し中のNetflix。ChromeOSで見られるのに、Linuxではさらっと視聴できず、ささっと見るもん見たら継続せずにお別れかしらと考えております。
とはいえ、結構な多言語対応していることを発見しまして、音声英語、字幕英語で……。早口わかんねぇよ!もっとゆっくり喋れよ!
これは腰据えてかかる必要がありますな。
つまりそんな時間は無いので、Netflix。Linuxで見られる様になるか、『Six Feet Under』全シーズン多言語状態で追加してくれたら、英語とフランス語で繰り返し見る。見ますが、10月の頭までにそんな状態になるとも思えないなぁ。
さよならを前提のお付き合いとか、ドキドキしますね。
そういえばマイクラサーバ
なんだかんだで、古PCをいただいてセッティングしたMinecraftのサーバですが、常時立ち上げておくなら勝手知ったるRPM系だろうとCentOS7を突っ込んだところ、なんだか色々と様子が変わっており、ついでに新しいことを学習する羽目になりました。ヤラレタ。どうも時々のエラーの出方がおかしいということで探ってみると、手持ちメモリの不良も発覚しまして、嗚呼、中古パーツしか使わないと決めるとこんな苦労が……。と、じっと手を見ることにもなったりしていますが、それもロマンの一部であります。
ともあれ、Minecraftを動かすディレクトリはつつがなくRAMディスクに突っ込みましたし、ついでに実行の優先度をあげて動かしてみると、案外どうにかなるもんで、現在、そこそこ快適に動いています。大いに感謝するものであります。
笑えるのが、別のサーバ上で動かしていたワールドを動かすと、chunkが読めない!とかいうエラーがそれなりに頻繁に出たんですが、しょうがないなぁと新しいワールドを作ってみると、大人しくなっているという謎の現金っぷり。読めないってエラーは出てるけれど、なんも表示されてないってこともないわけで、気にするもんでもないんでしょうが、なにはともあれ、ログに出るエラーが少ないのは気分が良いものであります。
こうなってみると、システム全体をRAMディスクに突っ込んで運用したいところ。
メモリ8Gとか16G載るんだぜという古PCを持て余していたら、頂戴したいであります。最終的にはシステム全体をRAMディスクに放り込んでルーター兼マイクラサーバというところまで持って行こうかしらと、野望が膨らみます。
などと言いつつ、がんばったところで、最後にものを言うのはマシンスペック。悪いロマンですな。
2015年8月21日金曜日
日々精進と発見となにやら。部屋とワイシャツとなんとか、いえ、違いました。

流木で何かしたいというフジッキーの発想があって、そこからのスタート。
前日に海岸が清掃されて、まさかの不発かと思いきや、流木が一箇所に集積されており、かえって恐縮。
生花視点での流木の良し悪し。何を見るか、どう活けるのかという話し。
流木の白くなり死んだ木肌の良し悪し。丸くなってしまったものよりは、折れてギザギザになったところのあるものが使いやすいということ。
なんとなく、流木で皿を作るという別ミッションのことも考えながら、夕方の氷見の海岸をふらふらして、実際に浜辺に流木を生けてみた。
フジッキーも、花屋になる前は結構な舞台役者で、日本の演劇の突端付近にいた男。流木も、立てたら空間になって、人がそこに立つというイメージは十分にできたうえに、さらにその流木が生けられたか、生けられていないかという視点が入るので、とても楽しい思いをした。
人間、公園だろうか道の真ん中だろうが、それなりのスペースにそこそこの高さのものを立ててしまうと、案外そこに非日常的ななにかを見出して満足してしまいがちになるものだが、この、生けられたかどうか、いかに生けるかというクオリティの求め方があると、一気に広がりが増していくと同時に、ただ立てるなら、どんな流木が良さそうかということもわかってくる。今回海岸で得られた、我々が思い描く舞台のディスプレイに適した流木についての考察は以下。
- 木肌は、より白い方がいい
- 長さは3メートル以上あった方がいい
- 枝の折れ感が鋭い方がいい
しかし、この条件があったからといって、決して何かが狭くなったわけではない。
ただ、こんな流木を求めて、海が荒れた次の日の海岸に行くしかなくなってしまったことも確かだし、ここからさらに、これが覆る何かを発見したり、新たな境地にたどり着くことができるかもしれない。
やっぱり場そのものや場数ってのは大事だし、専門家の目やら、考察を次につなげていくことというのは大切ですな。
何かの時点ので区切りは作るにしても、それもひとつの通過点に過ぎないわけで、幾つもの仮定や考察について、取捨選択の時間を短縮し、精度や品質を高めていくには、こうやっていくしかない。
わかるわからないも、やったかやらないかだけで決まると言って過言ではないっすね。
2015年8月13日木曜日
なんだか数日こねまわしていたんですけど、持っていてもふくらんでいくだけなので、日記だよということを思い出して、ちょっと整理して放出。いつにも増してわけわからないし、まとまり無く長いので注意。血パンダとTEDxHimiは人員を求めています。
先日、これに追い打ちをかける形で、某所でインタビューの内容から、いつから田舎はダメってことになったのか、どうやって脱出したらいいのかと、自分の中で大問題化している。
これ、前提として、土地に縛られてポータビリティを無くしてどうするって話しもセットなんで、そこを忘れない様に。
目についてどうしようもなかったものが、解決しないまま自分の中でどんどん増幅していって、本当にイライラしているわけですね。
以下、壮大な愚痴ってことで、ワロスワロスでもいいんだけど、いかがなもんだろうか。
個人的には、今どきは田舎でも特に問題ないわけで、個人的には映画を見るのが大変なだけだ。ロードショウを逃したらその瞬間に映画館で見るやりくりすらできない。これはしかしまぁ、我慢できる。
問題は人の頭数だ。
皆さん概ね「田舎でやってもしょうがない」「田舎だからいいじゃないか」とか、「こんななんにも無い田舎で……」という定番のやつに蝕まれている。
でなければあとは、周囲の雰囲気を見ての判断の結果ご一緒できないとか、俺ごときが、私ごときがというのが始まって、何かしようと言っても、そうそう順調には人が集まらない。
さてひとつなにかをしよう、そのための徒党を組もうとなった時に、必要な教養のある人間が簡単に集まることは非常に重要で、田舎では実際これがとても致命的だ。
じゃぁ、教養ってなにさって話しになるけれど、これは、なんかやるぞ。となった時に、そこに意義を感じた各々が、細かく言葉なんて通じなくてもいいから、ちゃんと正直に、我田引水をせずにみんなでどんな行動ができるか。そしてそれを実行していくうちに、何処かの時点でどのぐらい豊かな共通の語彙、認識を持つに至るか。
ここまでのプロセスに耐えられるかどうかが教養の有無のひとつの指標だと考えている。
一人で黙々と何かするんなら問題ないのかもしれないけれど、一人なら極端な話し、人類最後の一人になったとしても同じことだ。あ、流石に誇張しすぎ。
幸い、情報ならインターネットですぐに入ってくるし、今どきは一般的に中学は卒業できているので、大概の日本語は理解できる筈だ。
子どもたちが等しく妖怪ウォッチにはまる様に、大人だってなんだかんだで、いろいろな情報に触れられる筈なんだけれど、結局はどうだろう。実際、多少苦労するものには辿り着いても無かったことになるし、乗っかれる他人のふんどしならいいけど、自力で何かとなると、全くピクリとも動かない。
これは、多様化したからだと思っていたけれど、そもそもそういうもんでもない。手に届く範囲からどのくらい広げられるかってだけで、人間はそもそも一日二四時間、処理能力をフル稼働して生きていないので、知らないであたりまえだってことですよ。
見たり知ったりした瞬間に体が動くのか。そういう情熱を、なんであれしっかり培う雰囲気が田舎には無いんじゃないのか。これはなんでだろう。
仕事の休み。車。パチンコ。ショッピングセンター。禁煙。酒の量。これに、村の揉め事や祭りの話題が加わるだけでも幸せなんですけど、同じ話題がループするんですよ進もうよ。深めようよということなんですが、なかなか無いのです。
とはいえ、最近の世の中には自己肯定やら生き方のTipsやら学びの場があふれているんじゃないのかと見えるんだけれども、結局みんなで何処を見て時間だけ潰して身動きする時間を無くしているのか教えて欲しい。
何かを他所から持ってくるのはいい。どんな風にして自分の居る場所で形にするのか。完コピが上手くいくわけもないし、ただの真似だとそもそも薄っぺらくて根付くわけもないんだから、とりあえずできる範囲でいいから、ちゃんと根付くことしようよと思うわけだ。君のまわりに、君がなんか言ったりやったりしたことを区切りにしている人はいるか?そんな仲間を集めて、誰かのふんどしにそのまま乗っかるんじゃなくて、自分たちのものにローカライズして磨けているだろうか。
ナンバーワンのクオリティがお嫌だからって、オンリーワンを目指したら、それこそ圧倒的なクオリティが無いと、ものの数にも入れてもらえないことの恐怖に気づいておられるだろうか。残れないなら時間つぶしと同じで、それでもいいということは、極端な話し、人類最後の一人に以下略。
こういうのね、さて考えてみようぜとか言ったら、改めてTEDのバカ踊り動画とかで解説されても、頭にくるだけなんすよ。実際のところリーダーシップとかそういうもんでもない。
その辺の、普通に誰でもする分析はもうどうでもいいから、分析だけして踊らないことに価値があるなら、その真の価値についても厳しく問いたいものであります。
俺はそんなこんなで、血パンダ結成までは富山県内で誰一人、改めて演劇やろうってい言ってもあんまり相手にしてもらえなかった。そうこうしているうちに戯曲読んで集まってもらえたものの、いろいろ考えても、通算6年がかりぐらい。非常にありがたいことだが、やっぱり、あらぬ時間のかかりかたをしていると思うわけですよ。
さっきのリーダーシップってことでいえば、俺は血パンダの団長なんですけど、戯曲書いて演出するだけだから、役者が居ないとなんもできないわけです。大道具も制作も自分でやるとか、どんだけやねんって話しですよ。役者のみんなに言わせれば、「俺達書けないもん」って話しになるし、ほとんど場面転換も音も無いお芝居ですけど、血パンダの舞台にピッタリの地あかりを設計して調光してくれる照明さんが居たら、もっと凄まじい舞台になるんですよ。必要なのは、ナンバー2なのかと問われれば、答えは否です。
ある程度の規模にならない限り、マネジメント云々ってのは、できない、やらない奴らの戯言で、始めようやってみようって規模なら、頭働いて体動くやつが集まって何をするかきちんと考えれば、事足りるし、そういう中で長期展望っぽい種をきちんとまいていくことも、視野に入れられればいいんじゃないのかと、そんな次第。で、何処にいて、どうやって集まるのが普通なんだよ。
そうだ。血パンダは劇団員募集してます。TEDxHimiもまだまだ人員不足であります。
血パンダは演劇。TEDxHimiは例のトークイベントを実行する集団だけど、本当は、TEDの精神に従って、いろいろ活動したいところなんだぜ。
というか、ここまで書いててよくよく考えたら、ideas worth spreadingって、いいこと考えたから聞いてくれ!やってみようぜ!ってなんだか普通のことじゃないか。
2015年7月27日月曜日
やっぱり、集まれって呼びかける次のアクションが必要ですよ。次は行動。
http://nakazolog.blogspot.jp/2011/08/blog-post_24.html
何百冊のハウツー本を読んでいると自己紹介する人に、「で、何に準拠しているの?」と聞いて即答できるか、本当に聞いてみたい。ただ消費する行為で何処かに流れ着くことはあっても、明確に自分を変える力なんて無いでしょ。これだって、所詮は自分の中にもともとあったものが明確になっただけですよ。そう思えば、余計に自分が何に準拠しているのか、さらにどう変わるのかってのは、非常に重要なことですが、ここまでわかりやすいと、この本だって、哲学でもなんでもないハウツーです。昔の偉い人を並べて、どうだ!読め!書け!革命だ!とか、脅迫しているわけです。
なにはともあれ、読め。で、書けよ。おまえらも。どんな状態がやばいかはこの本に書いてあるし、この後も佐々木先生が優しく教えてくれてるかもしれないから、とりあえずいいんじゃね?と、そんな次第。
読んだらからには準拠できるか?準拠できてるかどうか怖くなるくらい読んだか?準拠してるか?マジで準拠してんのか?
学んだこと、知ったことを使えるってのはつまり、自分のものにするということで、自分のものにするってことは、準拠できてるかどうかってことだよ。同化ね。同化。いや、そもそも同化なんてできないから。
で、その上でなお、「考え」「言葉にし」「実行する」わけだけれど、できてるのか。全部、自分のことになってるかしら。
と、なんすかね、娯楽の多様化って、つまりガス抜き装置の多様化なんですね。
ここんとこ、そんなことばっかり考えてるんで、そろそろこれがネタになりそうな勢いです。
どうも疲れているというか、金曜の晩に酒飲んだのが足にきての土曜。そのまま日曜日の日光に負けた感じで疲れて……。この日光で疲れた感じって、土方のバイトの三日目ぐらいまでの体の感覚なんですけど、どうもよろしくないですね。
なんか、外での活動を考えます。
2015年7月22日水曜日
なんというか言葉だ。言葉ですよ。もっとこうなんですかね、すぱーっといきたい。
もしくは日本語か、言語そのものの不自由さについて考える。
ここで、こうではいけないと書いているこの一文に、同時に日常とはかくあるべしという意味も、俺を知らない人間も読み取れる様に、そんな書き方はできないものだろうか。
長い間、手書きのメモやらなにやらを叩き込む場所としてクロッキー帳を愛用しているけれど、そろそろノートのデジタル管理とか、アーカイブ化について前向きに考えていく時期な気がする。確実に摩滅しているものはあるから、蓄積に頼ろう。
昨夜寝る前に、ずっと気になっていたものについて、特にこれまでと同じ方法で気にすることはないと知っただけでも御の字。個人的な数日分の進展としては十分かもしれない。
久しぶりに道草Ingress。客先からまっすぐ帰宅せず。行った先に温泉があって、そのまま入浴。いいものですね。また行きます。しかしまぁ、啓蒙派の皆さんには、とてもオススメできない。
例の法案以降、ソーシャルネットワークでは長いものが大好きな人がぽろぽろと散見されていて、いちいち手を止めて考えてしまう対象になってしまうので、ちょいと迷惑。
長いものが大好きな人が人を小バカにできるチャンスを得て、SNSで実際小バカにしてはしゃいでいるのを見るのは、なんとも不愉快なものですね。
いや、単に俺がそういうのが好きな方ってだけか。面白いんだよ。面白いんです。でも、小粒なので結局は消費されて飽きられる娯楽みたいなもんなんですよ。でも人間よ。そう思うと嫌なもんなんですよ。
あ、何を長いと感じるかは、その人の属しているコロニーに準ずるんで、そこは間違えない様にお願いします。
例えば昨日見かけた人
Facebookのアイコンという通常の自分自身ですら誰かに仮託しなければならない様な人間。だからこそなのか、人を小バカにすることで自らの莫迦を晒す迂闊な行為は、大人としていかがなものだろう。具体的に彼の莫迦を何処に見たかといえば、自身のエントリーでもない、他人のコメント欄で、人に強く当てるにはあまりに浅いロジックで攻撃を行っているところ。
他人の尻馬に乗って、稚拙な猫騙しを出すなんて、それを切り抜けられて論破されたら、そこで使っている仮の人格が傷物になって困らないのかしら。仮託して身を守れると思ったら大間違いで、結局自身ではないので傷の修復は不能だと思うんだが、いかがなものだろう。
せっかく自分の身代わりをしてくれているペルソナ。雑なオモチャの扱い方していたら楽しく長く遊べないと思うんだが、どこまで迂闊な人なんだろうと、なんとなく公開されているエントリーを眺めて、自身を仮託できるものを多く持った浅くて広い幸福な人かと推察。
失敗したり、何か彼の心にとって重要な事件があれば、アイコン変わるんだろうなぁ。こういったことの同一性というのは、他者がどうかというのは無意味なんで、自身にしっかり同一性を保つ気があるかどうかが重要だと考えています。一貫させようという挙動さえ見えれば、なんでもいいんですよ。
彼が実生活を営むコロニーで、彼のああいった存在はどの様な形で受容されているのだろうか。
実名で公開の場で殴りあっている様な人なら普通に楽しく観察できるんだけれど、いかんせんSNSで友人の向こう側に居る程度の人だ。Facebookも折角なんだから、こういうのを隔離して観察する機能が欲しい。
ストとか暴動とかしない今の雰囲気というのは戦後徐々に作られてきていたわけで、そんな意味ではみんなグルですよね。
日本では、民主化運動のノウハウを誰も知らなかった。いつもならここで、中島敦の『名人伝』を出すのがテンプレートなんですけど、流石にゲロが出そう。なんの名人だよ。
2015年7月13日月曜日
血パンダの公演『Ostinato』も無事終了で、日記再開であります。
こういうのは、そのまま埋もれさせておくのでもいいんだろうけれど、まあ、一興ってことで、今回の上演作品『Ostinato』の前口上に加筆修正してアップ。
初日、6月11日の朝書いたものです。
前口上加筆修正
昨夜、ポルトガル人の写真家、ジョゼ・ペドロ・コルテスが富山県に滞在して撮影した写真の写真集が完成するからデータを送るとか言ってきまして、とりあえずpdfで見てくれ、感想が欲しいよとのことで、いそいそとダウンロードしました。
ジョゼと最初に会った時に『現代において、悲劇は関係性の中にしか存在できなくなっている』というハナシをポロッとしたときに「なんだよ、わかってんじゃん!」的なことになりまして、こんなことが赤ん坊とか野蛮人の様なカタコトでも通じるもの不思議な気分がしたのですが、そんなジョゼから送られてきた今回の写真集のタイトルが、
"One's own Arena"
ときまして、くっそ誰の?なにするんや?と、富山で見たものの写真集に付けるタイトルとしては、あまりに象徴的なんじゃないのかと思いながらデータを開きますと、写真に入り込んだ人物の視線、それを撮影するジョゼの視点にすっかりやられてしまいました。
ジョゼの他の写真集もなかなかいい感じで、その場面に至る移動や行き当たった感触がとても刺激的なものでしたが、これはまさに、富山県で実際にジョゼがいきあったものが写っているうえに、その時間感覚が概ね推察できるわけで、これがまた非常に感慨深く、俺は一体何の夢を見させられているのかと、息を殺して見てしまいました。
なるほど、作品製作に対して共通する視点や思想ってものがあると、こんな意味ではあんまり言葉要らないものだなと感じております。
だからって、俺が撮影する写真がジョゼと似通うかといえばそれは違うし、ジョゼも日本語で戯曲は書かないわけで、そこもまたこうやって出力することの面白いところ。ジョゼも待っているだろうから、全力で感想を返します。
しかしまぁ、感想自体は大量に書けるけれど、英語にできないや。なかなか細部までは伝えようが無いですが、頑張って箇条書きで感じたことを伝えようかと、大量の言葉が心を渦巻いております。
ほらほら、英語できないと損でしょ?とかいうのは、こういうタイミングなんでしょうが、これに関してはそうも思わないです。なんでかってのはまた、別の機会に。
ああ、これも現代の悲劇が発生していく地点ですね。

二年ぶりの血パンダの公演だったわけですが、考えていることを行動に移して、どうやってクオリティを上げていくか、磨いていくかってのはやっぱり楽しいことだと、いまさら再確認したものであります。
ずっと稽古はしていたわけですが、お客さんに見せないと何かをクリアしたことにならんもんですね、やっぱり。
何をしたら何処がゴールだったり区切りになるのか、入力と出力の適切な関係とは何か、最近は学習ごっこばっかりで、手段が目的化している人たちも多く見られるので、その辺自分でも気をつけながら速度も精度もあげていきたいものです。
あ、ジョゼがpdf見ろってんで、書きそびれた日記があった(w。
書きかけのまま、ここに引用しておきます。
劇場になる空き店舗に搬入などをしたり現場で稽古してみたりで、まぁ、なにがなんだかわからなくなっております。何食か食った飯のうちの2食はチキンラーメンだったわけですが、なんというか、非常時にはこういう飯がいいものですね。
うちでとれたズッキーニとキュウリの浅漬けを安いキムチの中に放り込んでおいたやつも、なんとなく食べごろで飯がうまいです。
ところで、血パンダにはちょっとした元手をせしめるチャンスがありまして、それ以来、なんとなくその予算で公演を回しております。過剰に自腹切ってないわけですね。
その分、もうちょっとなんかないもんかなぁと思う瞬間もあるわけですが、とりあえずはいい感じで公演にはお金かけずにやってきております。
こういうことをしているとすぐに、夢をどうのこうのとか言われるんですが、なんせまぁこういうものを苦労して作れば、なんだか報われることがあるということを知ったからやっているだけのことでしt
変に演劇の経験があると、演技に対する先入観みたいなものを手放すのは、なかなか難しい様で、と、そんなこと言って脅してどうする(w。
なにはともあれ、団員募集しています。
2015年7月6日月曜日
甲府まで強行軍で体がガタガタっす。
流石に体がオッサンなため、二日分のまとめ。
土曜、甲府桜座にて行われる「第7回悶★カーニバル『霊感ヤマカン第六感』友川カズキを迎えて」
http://atemzeit.fem.jp/gt/
のために、甲府入り。
道中、多少Ingressの実績を稼ぎつつ、甲府中心部が緑に沈んでいたものの、着の身着のままで、弾不足。現地調達で、なんとなくできる範囲できる時間で稼がせていただいた。
どうせなら、もう少し遊ぶ準備をしてからでも良かったかと思いつつ、何名かエージェントと推定される人の背中を確認。みっちり市街戦しに来てもいいなという甲府でした。
また行くことがあれば、予め弾持って、Ingressする時間の余裕を持って行きます。
悶★カーニバルを主催する友人、日向がとにかく、友川カズキに蹂躙されるのか、何が起こるのかということで、見に行かざるを得なかったわけだけれど、結果的に良いものを見させてもらった。
これに関しては長くなるので割愛。友川カズキの言を要約するなら「ずっとサビで気が遠くなる、悪魔のようなキチガイバンド。もう山梨には来ない。ほうとう嫌い」と、そのくらい素晴らしかったわけだ。
終盤、日向がハードコアのビートを叩き始めたところから、ごりっとはめてくるのかと思えばそこもしっかりすかしてくる辺り、何を追いかけるのかということについて、バンド各人の個々に追うものが個であり一となって、そのまま乗せていただいた。良い経験でした。
ところで、会場になっている桜座は10周年とのこと。1階にあって搬入搬出もしやすそうで、ロビーでそのまま打ち上げもできる。
何か表現しなければいけない人間というのはどんなことをしようが勝手にやるのだけれど、そんな人間が、何かの間違いで刺激を受け、研鑽しあうきっかけになりそうな場所というのは、なかなか得難い。あると知っていても行かないことと、無いことには、雲泥の差がある。
なんにしても、次回から車で行くときは、もっとちんたら移動します。
2015年7月3日金曜日
不思議なもので、一気読みできてしまう新書というのはなんだか残念な気分になる。
褒められて伸びるのは子供だけで、むしろミスや失敗から次の作品へのヒントを貰い、書き続けられるのだと思います。
というか、次につながるって何?という感覚の養成を、大人になるまでにやらなきゃいかんってことだな。
2015年6月6日土曜日
TEDのトーク、どれ好き?という話しになって思い出した。
食ということになると、人の脳みそは結構蝕まれている。
「虫で赤かったなんて!」とか「プラスチック食ってたなんて!」とか「腐らないのは変だ!」「工場が衛生的だからだ!」という言い合い。
人間ってのは、呼吸も含めて不純物を取り込まないと生きていかれない上に、燃費も悪くてダメな動物なわけで、それでも食物をありがたくいただく文化を獲得しているというのに、「食うな!」という皮肉に対しても「不食の一派が……」という斜めからのまじレスも入る始末。
なにがなんだかわからないんだが、とにかく美味いものが食べたくて、健康にはなりたくて、好き嫌いやら、そもそも食べられないものやら、なんにしても、自分が食いもんでガタガタ言いたくなる瞬間自体、いい気分ではないし、誰かが食いもんでガタガタ言っているのを見るのも嫌だ。
ジェイミー・オリバーのスピーチはガタガタ言うべきところは何処かという彼の視点がクリアになっていて、とてもいい。彼の言い分が納得できれば、自分の行動に落としこむこともできる。つまり、愛ティアを広めることに加担できる。素晴らしくTED的だ。
2015年5月17日日曜日
かけっこの練習
かけっこで 1番になれる本 |
先日、一緒に劇団やってる泰子先輩が、従兄がこんな本書いてるんすよとかいう話しをしていたので、『かけっこで1番になれる本』買ってみました。
で、先日残念ながらリレーの選手になれなかったと漏らしていた長女(小学校1年生)にちょっと走る練習してみようかと誘ってみたところ、マジでいきなり1秒タイムが縮んで、本人が大喜びしたので、もうちょっときちんとこの本の通りにやってみようかと思っているところです。
先にやっとけばリレーの選手に?それは無意味なたらればっすよ。
ところで、練習中娘に、「ちょっとお父ちゃんの言う通りにしてみてよ」と言ったところ、「お父ちゃんの言う通りじゃなくて、その本に書いてある通りでしょ」と突っ込まれて、ちと恥ずかしい思いをすると同時に、何かの本を読んで「この本一冊から、高額のセミナーのネタが何個とれるか……」的なことを書いてる人のことを思い出したものであります。
何を学び、身につけて実践するのかってことなんですが、私、この本の通りに走ってみて、完全に身につけてみるということなく、娘に「こんなコツがあるんだって、やってみようよ」と誘って、なんとなく教えながら娘のタイムを計測して、実際に速くなっていくのでびびっていたわけですけど、決してこれは「お父ちゃんの言う通り」じゃないわけで、本に書いてあることを伝えているだけです。
ブローカーのモラル。放つ言葉の主語については、しっかりと考えていかねばなりませんね。気をつけます。
ところで、走るフォームについて話しをしていて「でも、この表紙の絵の格好と違うやんか」と、またしても娘から指摘が入りまして、中経出版自体というか、なんやろ、もうちょっと気を使って本作ったらいいと思うんですけど、所詮はビジネス本の類い。読み捨てられる前提というかそういう扱いのものなの?と、これは苦笑い。
2014年9月9日火曜日
田舎でも、面白おかしくIngress。
ただ、精神衛生にはあまりよろしくないのも確かで、そういうゲームとはいえ、賽の河原とは斯くの如きかと思わないでもない。
が、こうなると人間また楽しみを見つけてしまうもので、ここを潰したら来るだろうか、ここにこんなリンクを張ったら飛んでこないだろうか。こんなことしたら、あんなことをしたら、やった以上にいろんなことされるんだろうか……。
などと考えながら、自分のできる範囲と時間を工夫してプレイに励むわけだ。
万里独行無双型
近隣の啓蒙派が概ね万里独行無双型と言ったが、その中でも、八月の半ば頃から抜群のプレイ時間を誇る綺羅星の様な啓蒙家が居る。
一応は社会人らしいと、たまたま補足した別の啓蒙家から、それとなくは聞き出しているものの、朝恐らくは客先に直行ということで始業前の時間からプレイを開始し、あわよくば直帰をもぎ取って、ともすれば隣県のポータルにも足を伸ばす力の入り方に、我々抵抗派一同、恐れをなしている。
朝の部、午前の部、午後の部、夕方の部、夜の部、深夜の部と、全く抜かりなく、ともすれば終了の場所と次の日の開始の場所が近い場合には、すわ車中泊かと、とにかく抵抗派連絡用のハングアウトでも、彼の話題が出ない日は無い。
今日の昼のできごと
ポータルをひとつ落とし、自動車で8分の場所にある次のポータルを奪取。
そこでハックしても鍵が出ずに難儀していたところ、先に落としたポータルに早くもお運びがあるとアラートでわかった。件の啓蒙家だ。平日の昼前だ。
さて、当初考えていた多重リンクの点を変えたものか、どのみち帰りも寄れるから今はとりあえず、あまり考えずにおくか……。という調子で、とりあえず2番目のポータルから3番目のポータルに移動しそこを解放したぐらいのタイミングで、2番目のポータルが攻撃されているアラートが出た。付いて来た。
都会ではひっくり返したり、ひっくり返されたり日常茶飯事かもしれないが、平日の昼間に敵エージェントに後を追われるなんて経験をした人は少ないのではないだろうか。最初のポータルと2番目のポータルの距離は車で8分。2番目のポータルと3番目のポータルの間は車で4分の距離だ。
意を決して2番目に戻ってみた。居なかった。
そこには、L7とL8のレゾネーターが挿されたポータルが残されているのみで、噂の無双啓蒙家の姿は無かった。とりあえずポータルを取り戻して、もう一度3番目のポータルに戻る。そこにも姿がないことを確認し、4番目のポータルを目指す。
が、走り出して3分もしないうちに、攻撃のアラートが出る。彼だ。
この時点で、私は4番目のポータルに向かう事を諦めた。多重を張ってから攻撃してくれれば、せめて、CFのひとつも作ってから攻撃してくれれば、餌食としても、もっと美味しかったものと思う。
今日の夜のできごと
抵抗派の先達から、隣県の山中に作ったポータルが生えたものの、すっかり道を忘れてしまって放置してあるという話しを聞いた。
場所は思い当たる。確認したところ、まんまと啓蒙家に発見されて、レベル1のポータルとしてintel map上では発見しにくい状態になっていた。ガーディアンのメダル目当てだろう。どちらにせよ、啓蒙派に場所が知れている以上、このポータルの存在を明らかにしなければならない。
それ以上に、これを私が取れば、恐らくはこのポータルを落としに、無双啓蒙家が万難を排してここを落としにくることだろうと、そんな期待をした。
昨日、その山間部の手前の地区に用事があったので、それをこなすついでに早速そのポータルを奪取し、レベル5にしてわざと長いリンクでCFを作った。ここまでが昨日のこと。
今日の夕方のことだ。昼に私を追ってきた無双啓蒙家が隣県で活動していることを確認した。直帰からの小遠征と見て取れ、あるいは山中のポータルにも立ち寄るのではと期待はしたものの、距離的にも車で1時間以上かかる。恐らく、彼に土地勘は無いものと思うし、日も暮れかけていて、到着する頃には暗くなっている時間だ。
だが、彼は期待を裏切らなかった。僻地ポータルを破壊し、一本挿しでもなんでもなく、きちんとレベル5ポータルを構築して、レアのシールドとフォースアンプを挿していった。
さて、その僻地からの戻りが問題だ。彼がホームタウンに戻るには、遠回りするか、暗い山中を行かねばならない。
1時間ほどで下山して、何処かを攻撃しながらホームに戻るものと思っていたが、2時間以上音沙汰がなく、少々心配になり始めているものである。
Ingress恐ろしい遊戯……。
少し心配になりましたが、どうやら啓蒙派8ポタ脇でのんびり補給しているところを目撃された模様。少しだけほっとしました。
2014年9月1日月曜日
平常時は無敵扱いの愛で地球が救われたことがないから、愛は地球を救うって宣言したら強いフレーズになる。これ、大声で言うにはセンスやそれらしい覚悟が必要ですよ。
諸々の啓発と、いわゆる弱者やハンディキャッパー、社会的なマイノリティな皆さんと、そうじゃない人々が、立場の違いから生じる互いのロジックとエゴを丹念にぶつけあうだけの24時間テレビをやれば、万事解決じゃないだろうか。
あとは、露悪的にならないバランス感覚にお金を十分にかけて、そういう番組に対して、地味過ぎとか辛いとか、そういうことを理由にオワコンとか抜かす奴を吊るし上げるネット工作員も組織してガンガン雰囲気作ればいいんじゃないだろうか。
『愛は地球を救う』と言い続けるには金がかかります。当たり前。普通に不可能への挑戦を叫んでいるわけだもの。新規顧客を獲得する以上のコストかけないと、どうにもなりませんよ。本当に救う様になったらハッピーなのに、みんな文句ばっかりですよ。
こんなんじゃ、下りのエスカレーターを並々と水入れた紙コップの水をこぼさない様に走りながら、上に豆腐を配達しようとしているみたいなもんですよ。
だからこそ、やり方がクールじゃないからダメ呼ばわりされるわけで、それが昨今、インターネッツのおかげでクールじゃねぇなと下るエスカレーターの速度が加速しているわけですよ。
現状、全国で「いいこと」に協力しているつもりになっている人々は十分に組織されているんじゃないかと、そんな風にも見えているわけで、風評が本格的になって面倒なことにならないうちに、「ボランティアとギャラ」「仕込みやらやらせ」とかでループして喜ぶ様な邪魔な芽は摘んでおくのが丁寧な仕事じゃなかろうかと考えるものであります。負けないでいただきたい。
命を削っているこん平師匠に大歓声あげている連中はTwitterで確認しているので、本当にもう、テレビの前の皆さんというか、ネットとテレビを併用している皆さんを、剣闘士が残虐な方法で死なないとおさまらないローマ市民の出来損ないみないたいな状態からなんとか救い出して欲しいものであります。
というか、命削るのも仕事ってメンタリティじゃないかと推察できる人に、わざわざ命削らしてる段階でノーアイディアだよ。
明敏に皆さんを満足させられるのは、きっとテレビだけだ。で、テレビでしか実現できないってことは、そういうテレビ番組には大勢の人が関わらないと成立しないと思うから、当然お金かかる筈だ。です。
あれ?見てないから言えるだけかな。実際、24時間テレビ見たら腹立つかな。
というか、こんなことに頭使いたくないので、本当に来年からはお願いしたい。
俺は自衛のために夏の終わりにネットつながない期間をもうける方向で今から修行しようと心に誓いました。
なんと!書きながらなんとなく思い出した『タイトルの魔力』Kindle版だけになとる!
2014年1月9日木曜日
なんでこんな結果になるのか考えてみる。
そのうち、「そら」は漢字でどう書くのか、色の名前を漢字で書くとどうなるのかという質問が始まり、聞かれるままに漢字を書いてやる様になったが、言われるままに書いていると簡単に難しい字に行き当たる。そうなるとすぐにオーバーヒートして質問しながら寝てしまうので、漢字ドリルを買い与えた。
で、誇らしげに、漢字が書ける様になったと言って書いてみせた最初の成果がこれ。
一から八までなんだけれど、なぜ十までじゃないのかと聞いたら、ドリルでは違うページだったからまだ練習していないとのこと。ドリルの都合で、彼女の中では八までで一区切りになった。
なんだその区切りはという違和感はあるが、数は数えられるものの、まだ桁が上がっての区切りの感覚も育っていないものと思う。ひょっとしたら、性格も関係しているかもしれない。
彼女の視点では八までを練習してそこで一区切りという感覚が自然で、九と十は一緒に覚えてしまうものではなかった。
人間、慣れてしまうことで、違う視点を想像できなくなることはよくあることだという話しもそうだし、何かのフォーマットを選択するにあたって、本当にそれでいいのかということの検討も必要だ。
例えば、この漢字ドリルがそうだ。寝てしまうから、なんとなく対象年齢だけを見て漢字ドリルを買い与えたけれど、きちんと概念のグループめいたことを考えて、一から十、ひょっとしたら百や千も同時に練習できる様にレイアウトしてあるものを選ぶべきだったかもしれない。
これはホームページや様々な情報発信の施策でよくあることだが、何かを見て「あれと同じものがいい」ということを決める前に、それがいいなと思ったのは何故か、本当に自分達もそれと同じでいいのかということを確認すべきだ。
完全なコピーが成立するわけもなく、いまどきはターゲットや予算、費用対効果を考えるという決まり文句も出てくるのに、結局はただ型だけをなぞって制作された結果、全く誰からも見向きもされなかったり、アクセスの傾向を見たら単純に通り過ぎられているだけだとわかる回り道を、苦労してWeb上に登場させることになる。
ターゲットを想定したところまでは良かったが、ターゲットの視点についての考察や、自分達がそのターゲットに向けて発信すべきものについて全く考えていなかったり、真似したい「あれ」ありきで実際はそれがひな形としては不適切かどうかは一顧だにされないために、ニーズってなんだっけ?という事態に陥り、当然のことながら体感できる効果も薄いため、ITはいつまでも活用するために勉強が必要なものという扱いを受けることになる。
考えることをやめずに、きちんと活用できるものを作っていきたいものだ。
ちなみに、ドリルのレイアウトについては、あくまで例でしかない。せめて百まで同時というのはそれに越したことはないだろうが、個人的にはこの八までというのがかえって面白いと思っている。
字を覚えたい、本を読みたいという娘の好奇心には全力で協力するが、言語と概念で縛られる前の感覚というのは、とても興味深いので極力放っておきたい。
今、そういう矛盾した立ち位置に居る。
2013年5月18日土曜日
問いに対しての返答と、何を問うかということについて考えたはじめたまま迷走
先日、氷見にフィールドワークに来ていた大学生と雑談する機会があり、なんとなく心にとまったのでメモ。
全体、まとめには至っていないので注意。
商店街は本当にしょんぼりしているのか
彼女は商店街の活性化を題材にして論文を書く予定で、氷見に取材に来ていた。今後もフィールドワークを継続していくとのこと。
氷見の商店街は現在、氷見出身の漫画界の大御所、藤子不二雄A先生の作品を使っての町の活性化の試みを実行している。5月5日には藤子不二雄Aワールド祭りということで、市役所、商工会議所、商店街が一体になってイベントを実行している。今年は6年目にあたり、普段とは違うにぎわいを見せている。
商店街の活性化の試みとしては様々な努力がある筈で、人が出て楽しむこともひとつのきっかけにはなる筈だ。
しかし、氷見の商店街は普段はがらんとしている。人出が無い。人出の無さにめげる観光客が居るぐらいに、長大なアーケードを歩行する人が居ない。
人口が減り、商店街に用事のある人自体が少なくなったこと。路上駐車で自動車を目的地に横付けするので、そもそもアーケードを歩かないことが、現象としての人影の少なさの原因だと考えられる。
人影は見えなくても商店街が全滅しているわけではない。シャッターが降りていたり、そもそももう店舗ではない構えになっている家はみられるが、粘り強く活性化の試みができて、イベントも実行できるだけの元気さもある。つまり、まだ成立していて危機感を抱き、行動できているということだ。
全体の売り上げや中心市街地からの税収や、アーケードに面している建物の種類から、厳密に判断してからシャッター街かどうかは判断してみても良い。シャッターが降りているのは目立つ。それに加えてシャッター街という言葉にイメージを操作されていないだろうか。
その場所に何が必要なの?という問いかけ
まちおこしというキーワードに慣れ親しんでいる関係筋が、現在どんな雰囲気を共有しているのかについて私自身は全く知らないが、氷見においては、数年前に町おこし、空き店舗利用というキーワードの元に、試みとして作られたカフェが幾度か経営する人が変わって、最終的に店として定着していないことが強く印象に残っている。
最近も、氷見に近い新湊でも、まちなかに新たにカフェを作っているので、空いた空間に人の憩う場所を設けるということで飲食店を開設するという動きは一般的な選択肢として、実効力があると考えられているものと思う。
憩いの場所があればというのは、声も出るし誰しも考えることだが、どんな場所が必要か、それが自力で経営を持続できるのかについては精査する必要があるものと考える。
氷見では間に合わせの憩いの場の必要が無い程度に、中心市街地の飲食店は充実しているし、個々の努力は普通の営みとして継続していると見て良い。
結局、呼び込むべきは誰で、何処に向かって石を投げ、意見を吸い上げるのかという繰り返しの手がかりを何処に求めるのかという点で、他の地域の成功例を何処まで参考にできるかということには注意が必要だ。
次に全くつながらない、次が考えられない失敗だけが害悪で、それは避けなければならない。
活性化。個、全体。店、客。
先の学生さんがインタビューした中に、商店街のイベントに対して非協力的な店舗の意見を拾ったと聞いた。
商店街の一員として、イベントに非協力的というのは、一見、活性化に対して非協力的であるという判断をしてしまうが、実際はどうだろうか。
具体的には、しっかり対象を絞って経営している高級路線の店が、ワンコインで通りすがりの人々を相手に何か商品を提供するというイベントに、果たしてすんなり参加できるかという話しだ。これは当然、個々の店とコミュニティとしての商店会との関係性の問題であると同時に、店の余力の問題、店のイメージづくりや経営方針の問題も関係してくる。
その店舗自体が、人を寄せるという商店街の流れとかけ離れた顧客を相手に商売をしているとしたらどうだろうか。あらゆるビジネスが万人に親しみやすい必要は無いし、商店街の中にも当然、高級路線の店があってもなんの問題もない。
品質がよく、安くなければ売れないという先入観によって、実際のところ、高価で高品質なもの。いわゆる一生ものとか、祖父から、父から譲り受けたものという代物がすっかりなくなっている。
地域に密着した商店の力、役割とはなんだろうか。
2013年3月28日木曜日
なんやと全く。ええ。
その場ではそれらしい結論には至らなかったものの、他者を意識しないまま、市民というものを口走るのはいかがなものかということと、他者を意識しないままコミュニケーションという言葉を口走ることの不可能さについて、今更の様に再確認することになった。
人の言葉を聞いて返すという行為の中で、フロイトレベルで弱くないか?と思わせる、自分に向けられた言葉という刺激に対して、自身の心を維持する壁が持つ必須機能レベルの機械的な反応を、公の場で人の前に立ってですら露呈し、そこに思い至らない人間が居ることへの驚きが消化しきれないまま一日を過ごした。
目から鱗です。素晴らしい気覚きをありがとうございます。感謝です。
この言葉の背景に明確に自己と他者があるか。
今、自分が感じている違和感を、自分自身が受容できるが故に内発として素直に言語化できる入り口が、ここにあるかもしれないと、そんな風に感じている真夜中であります。
2011年10月4日火曜日
とりあえず、放置は気持ち悪いので一旦放り出す。
私の父ぐらいの世代の社長のおはなしを聞く機会がある。紋切り型だが、毎度、なんとも身の引き締まる思いがする。
起業がどうだとか夢が野望がと、そういう類いのではなく、会社を営んで雇用を続けること、なんとかして業績をあげていこうと、そんな地に足のついたハナシが聞けるので、自分としては、従業員を雇うだとか、そんな身分には到底ならないよなぁと、そんな意味では多少申し訳なく思いながら、おハナシを聞き続けるのだ。
ある社長が、自分の会社が確実に世の中のためになっていることを挙げるとするならば、なにはともあれ雇用を生み、それを維持していることだとおっしゃっておられた。確かにそうだと思う。
そこに、少しの修正を加える方も居られる。とりあえず、意味のあることで、人に喜ばれることを目指さなければ、お金なんてついて来ないんだから、先ずはそこからだろうと。
二十歳で富山から出て十五年振りに戻ってみてびっくりしたのは、働くことに対しての富山県民の不真面目さだ。残業が無ければ給料が少ない。残業があれば仕事がだるい。そしてボーナスが安くなってやっていけない。でも、仕事しなければ生活していけないから、辞めたいけど辞められない。ニートをやる度胸もないまま、中途半端なお金を手にして、自分が作り上げた仮想の社会の監視下に自分を置く事で、普通の生活をようやく成り立たせている様な連中がぽつりぽつりと散見されて、軽くショックを受けた。
働くことについてのモチベーションは普通に低い。自らを鼓舞するための合い言葉は「娑婆は甘くない」「娑婆では通用しない」だ。娑婆とは富山弁においては隠語でもなんでもない、そのまま社会のことだ。
なにぶん、自分のほとんどの親戚が職人や一次産業従事者だったもので、大人のロールモデルとして、いわゆる会社員というのが一体何をしているものなのやら、全く想像がついていなかったのがよろしくなかったという自覚はある。最終的には中退してしまったが、長年居た芸術大学では、確かに就職活動している奴は居たけれど、だからなんだよというハナシでしかなかった。
富山に戻る前の唯一の会社員経験がベンチャーで、社長が「このまま何もしなくても、五年は今の給料を維持できるところまできた。でも、うちはベンチャーだから、ここから改めて生きるか死ぬかの賭けに出る。急成長できるか死ぬか、どっちかだから気張っていくぞ」的な宣言をする様な会社だったし、そこで得た経験が働く事についての自分の基準になっている。
つまり、もともと学校を出て職に就くことに価値を見いだす体系の中に居なかった上に、自分の観察や経験の範囲が偏っていることを十分に知った上では、富山県に戻って聞かれる「娑婆」という言葉も、確実に社会というにはあまりにも怪しい範囲を経験してしか作られない自縛の紐にしか見えないのだ。
低いモチベーションが、自爆の紐と給料でなんとかコントロールできているならば、精神力そのものは素晴らしい鋼鉄だと賞賛したい気もしなくはない。
とはいえ、自分を振り返って見ても、今はとにかくなんとかだらだらと自分なりの世渡りをしているのだけれど、それが盤石なのかと問われれば、あまり褒められたものでもないことは確かだ。だが、何はともあれ、これをなんとか上向きにしていくより他はなく、では、君がそれを続けるモチベーションは何処から出て来るのかと問われれば、単純に、これが他の仕事よりも格段に楽だから。他をやるくらいならこれがやりたいので。としか言いようが無い。実際は自分もそうやる気マンマンというわけでも、戦略的にやっているわけでもなく、ただ、一貫して続ける方法を模索しているに過ぎないのだ。詰まるところ、自分が得意とする何らかの技術に依存する職人のロールモデルに忠実なだけなのではないかと、自問を続けるところからは到底抜け出せていないわけだ。
こんな話しを聞いた。
会社に寄付のお願いに来た女子高校生に「将来は何になりたい?」と聞いたら「お金を稼ぎたい」と言ったので少し期待が膨らみ、「何をしてお金を稼ぐんだい?」と更に問うと「いろいろ親とも話しをしているんだけど、公務員がいいみたい」と帰ってきたとのこと。
そんなに珍しいハナシでもないだろうが、とりあえず、子供には「稼ぐ」ことと「お手当て」をいただくことの違いぐらいは、面倒でもなんとか教えてやれる世の中な必要があるのではないだろうか。
この女子高校生は、一般の企業に寄付のお願いをしにくるくらいの行動を起こす程度には、何かに納得して実際に実行している。このことを拾って彼女を評価する大人も居るものと思う。行動の型を教えて実行させるのは問題無い。ただし、思考の道筋をどのくらいの量整備してやれるかは、ある程度は周囲の大人に責任のあるところではないだろうか。
少なくとも、経験の少ない若者に、大人以上の柔軟な選択ができるわけもなく、高校生という枠を遵守させるという規範から外れないために教員ができるアドバイスも限られている筈だ。
意識が高い高校生だ。社会のためにがんばれとかおだてたところで、具体的に何を教えてやれるか、関わる人間が何処まで自分の責任で道筋を見せてやれるかで、全てが変わってしまう。得意な人の成功例ばかり教えてなんとかなるのは、もっと小さい頃で、大雑把な導き方をすると成功例には、確実に「魔法」の部分が含まれているから、ろくなことにんらない。
正しいロジックなんてものはそれを正しくするために出発点を設定してやれば何処からでも始められるもので、その子供が関わる社会の持つ「なんとなく」が局地的でテクニカルな正義を作り、何らかの沿うべき空気を感じさせると思えば。その空気を読むか読まないかの選択肢の中でしか存在が許されないと感じる大多数の正常な子供が、どんどん娑婆に染まっていくのはあたりまえのことだ。
個人的には、無垢な子供が来たら意地悪して堕落させてやりたいと思っている。責任ある大人としては、堕落したらしっぱなしの奴とは到底大人として付き合えないし、最初から低い所にボーダーがあって、それを越えてもいちいち慌てふためかない人間の方が近所に居ても楽だからだ。
とか、こんな風に考えてしまうから従業員とか……。いや、それ以前の問題ですね。精進します。
2011年9月29日木曜日
情報の経路。メッセージ。コミュニケーション。時系列
もう十分理性的な大人だし、若い頃かぶれたポストモダンの食い残しの補完とか、娯楽としてのオカルトや陰謀論って、なかなかどうして捨て難いんですけど食い合わせってありますよね。
反省して何か物語りをということで、長く中断していた八犬伝に手を付けているんですが、楽しいったらありゃしない。ぐいぐい入って来ます。
朝、打ち合わせの予定があり、直接客先に向かうべく氷見の自宅から富山市内に向かう最中、気まぐれで『富山』という紙を掲げているヒッチハイクの青年を拾いました。
色々とハナシを聞くんですが、妙に紋切り型で、その紋切り型っぷりが素っ頓狂でした。私、流石にスキンヘッドのヒゲなんで、何か無理をして馴染もうとしているんだろうと判断したんですが、それでもかなりぎこちないのでした。
・どこから出発したか
・いつ出発したか
・どんな経路を通って来たのか
・年齢
・出身地
・出身大学
・大学で何を研究していたか
ここまでは普通に聞きました。
ハナシの流れの中で、以下のことを喋ってくれたので把握しました。
・実家の家業
・正式にではないけれどイスラム教徒
彼との会話の中で、敢えて確認はしなかったものの、違和感は以下の点に集約されました。
・ヒッチで富山を通るのは、初めてではない可能性がある。
今年の春に学校を卒業し、色々と思うところあって、旅に出たとのこと。こちとらその手の人間はポツポツと見ているので、就職できたとかできなかったとかということについては、全くどうでもいいことなんですが、ヒッチ慣れしているのか、初ヒッチなのかは気になるところではあります。
ヒッチ慣れしているなら、トラッカーのアニキの移動の暇つぶし要員として淡々と機能すればいいわけです。微妙な場所に立っていたので、こちらが勝手に慣れてないのかなと思ってちょっと拾ったまでのことですが、そうでもないなら適切な場所を求めて移動することも、ヒッチハイクでは必要なことのひとつの筈。
彼が掲示していた行く先『富山』というのは富山市内どこでもというわけではなく、富山から新潟に抜ける幹線道路、国道8号線からは離れたくない様子。しかも、『富山』という紙を示しておきながら、彼が心に決めていた第一目標地点は滑川だった辺りで刻み方を心得ているというか、立っていた場所の微妙さは、彼の喋りのぎこちなさと相まって、単に彼のパーソナリティの一部なのではないかとまで思えてくる始末。
最終的には彼を、8号線のトラッカーを拾いやすい辺りで降ろしました。
さて、午後は急遽稲刈りとなっており、午後の予定をリスケジュールしながら急いで氷見に戻るわけです。
ところが、都合良く経路上の全く予定外のお客さんから、急だけどさらっと打ち合わせできないかしらとか言われ、これもタイミングかと、寄り道などして少し時間が厳しくなっていたところ、高岡から氷見に入る海老坂という場所で、またヒッチの青年が居り、今日はそんな日かということで、私、にわかに運命論者な気分になって拾ってしまいました。
こちらは、「本当は自転車で旅に出ようと思っていたけれど、頼みの自転車が故障して、直していると前半の日程が組めなかったので、今回はちょっと人に甘えようと思って……。」と、この手の旅には多少慣れている様子。とはいえ、氷見から奥能都方面にヒッチで抜けるというのは、実はちょっとイメージできませんでした。聞けば、ヒッチはほぼ手探り状態の様です。
この青年とハナシをしていて、敢えて言わない話題でもないので「今日はヒッチ拾うの2人目だよ」と言うと、当然興味を示すわけです。そこで少し詳しく朝の青年のハナシをすると、「えっ」とびっくりしてぎこちなくなりますが、こちとら「キター!」ってなもんです。
出身地、容貌、素っ頓狂な感じ。
この青年が2年前に自転車で旅をしていた時に、新潟の道の駅で一晩一緒に居た人の可能性が高いとのこと。
高いも何も三点一致すれば十分で、「うわ、まじか、しっかりしろよ……」という青年のつぶやきが、あらためてイロイロ物語るわけです。
と、ここまで書いていたものの、ここから更に展開して、ハナシのオチというか、総括めいた結論付けにもっていくつもりだったんですが、やめておくことにします。今日の主題は『情報の経路。メッセージ。コミュニケーション。時系列』です。推して知っていただければ……。無理ですよね。補足します。
今朝の気まぐれの遠因に、朝確認したTwitterのタイムラインで見かけた誰かの呟きで「なんだかカーゴ・カルトだなぁ」と思ったこと、「カーゴ・カルト」と「まれびと」が今朝のタイミングで私の中ではビビットだったこと、午前のお客さんとの打ち合わせは実は昨日だったのに、私が一日勘違いしていたこと。
稲刈りは、やんわり木曜ぐらいということだったものが、急に今日の午後になり、午後の予定をリスケジュールしていたこと。今日一日の動きの中で、人を介しているせいで意味不明になっている件が、複数すっきりしていないことなど、私という視点と思惑。誰かの視点と思惑といったことで、非常に印象深い一日だったという、つまらない報告でした。
すいません。すいません。