2011年10月4日火曜日

とりあえず、放置は気持ち悪いので一旦放り出す。

【このエントリーはこれ以降も、コネコネと修正します。多分】

私の父ぐらいの世代の社長のおはなしを聞く機会がある。紋切り型だが、毎度、なんとも身の引き締まる思いがする。
起業がどうだとか夢が野望がと、そういう類いのではなく、会社を営んで雇用を続けること、なんとかして業績をあげていこうと、そんな地に足のついたハナシが聞けるので、自分としては、従業員を雇うだとか、そんな身分には到底ならないよなぁと、そんな意味では多少申し訳なく思いながら、おハナシを聞き続けるのだ。
ある社長が、自分の会社が確実に世の中のためになっていることを挙げるとするならば、なにはともあれ雇用を生み、それを維持していることだとおっしゃっておられた。確かにそうだと思う。
そこに、少しの修正を加える方も居られる。とりあえず、意味のあることで、人に喜ばれることを目指さなければ、お金なんてついて来ないんだから、先ずはそこからだろうと。

二十歳で富山から出て十五年振りに戻ってみてびっくりしたのは、働くことに対しての富山県民の不真面目さだ。残業が無ければ給料が少ない。残業があれば仕事がだるい。そしてボーナスが安くなってやっていけない。でも、仕事しなければ生活していけないから、辞めたいけど辞められない。ニートをやる度胸もないまま、中途半端なお金を手にして、自分が作り上げた仮想の社会の監視下に自分を置く事で、普通の生活をようやく成り立たせている様な連中がぽつりぽつりと散見されて、軽くショックを受けた。
働くことについてのモチベーションは普通に低い。自らを鼓舞するための合い言葉は「娑婆は甘くない」「娑婆では通用しない」だ。娑婆とは富山弁においては隠語でもなんでもない、そのまま社会のことだ。

なにぶん、自分のほとんどの親戚が職人や一次産業従事者だったもので、大人のロールモデルとして、いわゆる会社員というのが一体何をしているものなのやら、全く想像がついていなかったのがよろしくなかったという自覚はある。最終的には中退してしまったが、長年居た芸術大学では、確かに就職活動している奴は居たけれど、だからなんだよというハナシでしかなかった。
富山に戻る前の唯一の会社員経験がベンチャーで、社長が「このまま何もしなくても、五年は今の給料を維持できるところまできた。でも、うちはベンチャーだから、ここから改めて生きるか死ぬかの賭けに出る。急成長できるか死ぬか、どっちかだから気張っていくぞ」的な宣言をする様な会社だったし、そこで得た経験が働く事についての自分の基準になっている。
つまり、もともと学校を出て職に就くことに価値を見いだす体系の中に居なかった上に、自分の観察や経験の範囲が偏っていることを十分に知った上では、富山県に戻って聞かれる「娑婆」という言葉も、確実に社会というにはあまりにも怪しい範囲を経験してしか作られない自縛の紐にしか見えないのだ。
低いモチベーションが、自爆の紐と給料でなんとかコントロールできているならば、精神力そのものは素晴らしい鋼鉄だと賞賛したい気もしなくはない。

とはいえ、自分を振り返って見ても、今はとにかくなんとかだらだらと自分なりの世渡りをしているのだけれど、それが盤石なのかと問われれば、あまり褒められたものでもないことは確かだ。だが、何はともあれ、これをなんとか上向きにしていくより他はなく、では、君がそれを続けるモチベーションは何処から出て来るのかと問われれば、単純に、これが他の仕事よりも格段に楽だから。他をやるくらいならこれがやりたいので。としか言いようが無い。実際は自分もそうやる気マンマンというわけでも、戦略的にやっているわけでもなく、ただ、一貫して続ける方法を模索しているに過ぎないのだ。詰まるところ、自分が得意とする何らかの技術に依存する職人のロールモデルに忠実なだけなのではないかと、自問を続けるところからは到底抜け出せていないわけだ。

こんな話しを聞いた。
会社に寄付のお願いに来た女子高校生に「将来は何になりたい?」と聞いたら「お金を稼ぎたい」と言ったので少し期待が膨らみ、「何をしてお金を稼ぐんだい?」と更に問うと「いろいろ親とも話しをしているんだけど、公務員がいいみたい」と帰ってきたとのこと。
そんなに珍しいハナシでもないだろうが、とりあえず、子供には「稼ぐ」ことと「お手当て」をいただくことの違いぐらいは、面倒でもなんとか教えてやれる世の中な必要があるのではないだろうか。
この女子高校生は、一般の企業に寄付のお願いをしにくるくらいの行動を起こす程度には、何かに納得して実際に実行している。このことを拾って彼女を評価する大人も居るものと思う。行動の型を教えて実行させるのは問題無い。ただし、思考の道筋をどのくらいの量整備してやれるかは、ある程度は周囲の大人に責任のあるところではないだろうか。
少なくとも、経験の少ない若者に、大人以上の柔軟な選択ができるわけもなく、高校生という枠を遵守させるという規範から外れないために教員ができるアドバイスも限られている筈だ。
意識が高い高校生だ。社会のためにがんばれとかおだてたところで、具体的に何を教えてやれるか、関わる人間が何処まで自分の責任で道筋を見せてやれるかで、全てが変わってしまう。得意な人の成功例ばかり教えてなんとかなるのは、もっと小さい頃で、大雑把な導き方をすると成功例には、確実に「魔法」の部分が含まれているから、ろくなことにんらない。
正しいロジックなんてものはそれを正しくするために出発点を設定してやれば何処からでも始められるもので、その子供が関わる社会の持つ「なんとなく」が局地的でテクニカルな正義を作り、何らかの沿うべき空気を感じさせると思えば。その空気を読むか読まないかの選択肢の中でしか存在が許されないと感じる大多数の正常な子供が、どんどん娑婆に染まっていくのはあたりまえのことだ。

個人的には、無垢な子供が来たら意地悪して堕落させてやりたいと思っている。責任ある大人としては、堕落したらしっぱなしの奴とは到底大人として付き合えないし、最初から低い所にボーダーがあって、それを越えてもいちいち慌てふためかない人間の方が近所に居ても楽だからだ。

とか、こんな風に考えてしまうから従業員とか……。いや、それ以前の問題ですね。精進します。

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