2013年3月25日月曜日

氷見市長選挙が15年ぶりに行われるわけだけれど、起きている波の割に微妙な状況に見える。


氷見市で15年ぶりの市長選挙が行われる。
保守系の分裂から選挙実行の流れになったものだが、現在の市長の後援会などで組織する後継候補選考委員会というのが、新聞報道されるくらいの勢いで動いての結果だということで、これが丸く収まっていたら、無投票で新市長が決まっていた可能性もある。

3.11以降とはよく耳にするが、果たして氷見市で何が変わったのかといえば、志賀原発との距離を再認識させられたことも含めて、何も変わっていないのではないかと思わせられる。
隣の高岡市で震災の瓦礫を受け入れるという話しの果てには、高岡市とその周辺でつくる広域圏のゴミ処理施設の建設という大きな金の行く先が存在があり、それは氷見市内に建設される。氷見市民の中に、震災瓦礫の受け入れに対する当事者としての意識はどの程度のものとして捉えられているだろうか。

ただでさえ結論の出にくい原子力絡みの問題があらわにしたことがあるとすれば、氷見市においては、結局3.11以降も、それぞれの人間関係の中で、声の大きい人間の影響力に準じて、「煙たい話題なので触れない」から「納得したから何か行動しよう」までの反応の濃淡があり、何らかの使命感や当事者意識、自分の意見を持てなければ、とりあえず同調しておくけれど行動はしない。3.11以前と全く変わることのない日常が営まれていると見て良いのではないだろうか。

それでも、これまで全く目が向かなかったことに、目を向けざるを得なくなったということはある。先ほどあげた反応の濃淡の一番淡い部分から、「全くなんの関係もない関心が持てない」が無くなっただけでも、十分な意識の変化と捉えることもできる。
ただ、こんな状況ですら、無投票で市長が決まる瀬戸際だったことには変わりがない。今もなお、声のでかい奴らに任せきりにしてなんとかなるという状況なのか、なんとなく景気が悪いどころではなく、自分の懐事情のみならず、住んでいる市の財政までもが思わしくないということに、どれだけの氷見市民が具体的な危機感を抱いているのか、そもそも、その危機感、不安から何をどう捉えて行動することが正しいのか。
実際のところ、誰にどんな質問をすればいいのかすらわからない。そんな状態ではないだろうか。

立候補予定者の二つの陣営が活動を始めてから早速はじまったのは、こんな義理があるので応援しなければならない。こんな関係があるので応援しなければならない。だ。これならまだ、選挙のたびに勝ち組負け組に分断されて敵味方が明確になり、実弾が飛び交う地方の方がまだ解りやすいのではないかと思わせられる様な、5万人程度だとこの狭さかという社会の構図を露呈している。

この選挙でしっかり選択しなければ、確実に氷見市は終わるのではないかと考えている。どちらを推さなければどうなるという話しではなく、むしろ、投票する側が選ぶ習慣を獲得する必要があって、このタイミングを逃しては次が無い。
そして、氷見市の保守系の御歴々も、保守の分裂という、嘘だとしても終わればノーサイドと言いやすい状況を利用して、選ばれるという癖を付けなければ、適者生存の理にかなった人材の切磋琢磨も無いのではないかと考える。
票ばかり読んでいないで、候補者を見て品定めしてくれよというメッセージをきちんと市民に届ける緊張感を持てば、小さな市の状況なんてものは、結構簡単に変わるのではないかと、今回の選挙の流れで体感される氷見市の狭さから、強く感じている。
住民の意識が変われば、何も起こらないなんてことは無い筈だ。