2013年3月28日木曜日

なんやと全く。ええ。

今日の夕方、芸術学部文芸学科という微妙な場所に居た学生の頃、ドイツ美学が専門のゼミの先生と、他者ってなに?市民ってなに?って話しになったことを思い出した。
その場ではそれらしい結論には至らなかったものの、他者を意識しないまま、市民というものを口走るのはいかがなものかということと、他者を意識しないままコミュニケーションという言葉を口走ることの不可能さについて、今更の様に再確認することになった。

人の言葉を聞いて返すという行為の中で、フロイトレベルで弱くないか?と思わせる、自分に向けられた言葉という刺激に対して、自身の心を維持する壁が持つ必須機能レベルの機械的な反応を、公の場で人の前に立ってですら露呈し、そこに思い至らない人間が居ることへの驚きが消化しきれないまま一日を過ごした。

目から鱗です。素晴らしい気覚きをありがとうございます。感謝です。
この言葉の背景に明確に自己と他者があるか。
今、自分が感じている違和感を、自分自身が受容できるが故に内発として素直に言語化できる入り口が、ここにあるかもしれないと、そんな風に感じている真夜中であります。

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