2015年6月12日金曜日

文化とはなにかについて考えさせられている

食育サポーターというのをやっている、うちの母から聞いた話し。
ちょっと前まで氷見市では市内の年長さん全員に魚の捌き方を教えるというのをやっていた。市から予算もらっていたものだが、去年からこれがカットされて、年長さん全員ではなく、一部の幼稚園、保育園で実施、人数にして半分ぐらいの年長さんにしか魚の捌き方を教えられなくなってしまった。

教えていくなかで、魚の味噌汁を作ったりもするんだけれど、捌いた末の刺し身やら骨やらが、調理後の魚と同じものだと認識していないというのはよくある話し。そもそも味噌汁を飲んだことないので、飲みたくないという子供も居るというのだから、なかなか食育も侮れない。
氷見界隈ではそもそも、魚の味噌汁はお椀ではなく、「ちゃん鉢」という深皿によそわれる。魚の身が食べやすいようにということらしいが、そもそも同じ富山県内でも「ちゃん鉢」が通じない場所もあるわけで、何かしら次世代に伝えていったら良さそうな文化だ。

母とは別ルートで聞いた話しによると、氷見市は今後「魚食文化をリードする」というブランドイメージを定着させていくべしということになっているらしい。
昨日とれた魚に見向きもしない氷見の魚食文化を以ってして、何をどの様にリードしていこうというのかと、そこは気になるところ。加工業も存在してはいるけれど、実際に「食文化」として家庭に根付き、受け継がれている魚食にどんなものがあるのかと、振り返ってみると、果たしてなにをもってリードとするのかの定義すら怪しい気もしている。
皆無ではない。
魚の捌き方ひとつ取っても、そもそもが漁師の娘で、既に六十歳を過ぎているうちの母が、「思えばこの魚、もう少し上手く捌ける気がするんだけど、なんか包丁の入れかたあるの?」と伯母に聞く場面を見ることがある程度には、普段から魚を食べている。
が、「魚を食べる文化」と呼べるもの、そう定義しようとしているものの受け皿の有無については、非常に疑わしい。
それこそ、捌き方なんて園児全員に教えるまでもないので、予算カット。という市の判断もやむを得ないと思われるくらい。魚自体に対して豊か過ぎるのではないかと考えている。
母によれば、予算カットの理由は、「毎年工夫もなく同じことをやっているから」だそうだ。
ストレートにやればそれでいい。仕事は要らない。昨日の魚は干物にもしない。この豊かさで何をリードするのか。刺し身が食べられないなら昆布締めにすればいいじゃない。というマリー・アントワネットの様なことでは冗談にもならない。

だが、氷見の食の豊穣さについては疑う余地はない。
味噌汁を飲んだことのない子供が居る一方で、日常、氷見産の煮干しで出汁を取り、自分で栽培した大豆で仕込んだ味噌で味噌汁を飲んでいるという家も、一定数存在している筈だ。うちも、大豆が自前のものではない年も増えてきたが、ずっと自家製の味噌を仕込んでいる。
このコントラストをどうにかするのは誰の役目だろう。
食卓の自給率の様なものを指標に取れば、簡単に氷見の豊かさや様々な分野にまたがる特徴や努力目標が見えてくるし、数字として把握もできる。

つまるところ、ありそうに見えて、実は無かったものに邁進するのは、上っ面だけの大甘な分析を基板にしているからなんじゃないの?と、その点を強く疑うものだ。
今後の動きについても見ていきたい。それと、今年、そのつもりで準備していたのに、結局大豆をスルー。来年植えねばと反省しているところ。実は、味噌が足りなくなってつなぎで買ってきたやつが不味かった。こういうことではいけない。