2015年6月26日金曜日

血パンダの公演ですよ。

Ostinato

午前様でそのまま力尽きて寝てしまったので、朝っぱらから昨日の日記。
演劇やってまして、血パンダって劇団なんですが、近々公演です。
エンターテインメントなんてのは、選ばれた人気者がやればいいんですよ。そういう人たちの拙い真似っこはしないし、そこに力注いで満足感を模索するくらいなら、最初から違うことします。
ってわけで、好き好んで圧力しかない、わかりにくい演劇やってるんで、そういう覚悟だけして来てもらえると、元本保証はしないですけど、通常、そこそこのリターンはあります。

継続して求めていく価値、その時々のコンセプトとか、そういったことは諸々ありますが、世の中の皆さんというのは、案外そこら辺を外しても、適当なフラグさえ立てればいいというか、悪くても安くても、収まればよしという考え方をしているもんでしょうか。どうも、ベース作ってそれに忠実にやるという動きを理解している人が少ない様に感じる今日このごろ。
経済活動はそれでも大丈夫かもしれないけれど、そうでないものは世の中にはゴマンとあって、さてしかし、どうしたものかと考えることが多くなっています。

コンセプトに対してどう忠実になるかで、遊びの質や楽しさも違ってくるもんですが、こういった時にすぐに出てくる、AはオッケーだけどBはダメってことなら、その境界は何処なの?という問い。
そう問わねばならん段階で、多くはなんでAがオッケーでBがダメということになったのか、その本質を理解していない場合が多くて、本当ならその時点で、向いてないからやめとけと諭せば仕舞いなんですが、なかなかそうもいかないわけで、困ったものです。

何かを実行する集団ができれば、実際にはその集団ごとに厳密に運用される様になる語彙というのができてくる筈で、若者言葉が「仲間の連帯感を高めるために……。」という様な言われ方をしますが、連帯感だけでなく、伝達の効率や何をして何をしないかが、集団内の語彙、言葉の使われ方で決まっていくわけです。
そのうち、あらぬタイミングで、言葉が通じない奴の存在が発覚して、「この期に及んでわかってなかったのか!」という様な事件が勃発するわけですが、集団内の文化の醸成というのは、実際はきちんと脳みそと言語でやることで、そこを面倒がる人ほど実にコンセプトの理解も面倒がるもので、あ、つまり前段の、なかなかそうもいかないというのは、やっぱり間違いですね。
ルールが理解できないなら、このゲームやらなくても死なないから安心して他のゲームやりなよ。というのは、一見酷い話しですが、そもそも人の価値と直接は無関係なので、よしとすべきじゃないかしらと、そんな風にほっこり考える次第。
言葉は発したのか。頭は使ったのか。きちんと確認していきたいものであります。