2011年8月24日水曜日

夏の読書感想文『切りとれ、その祈る手を』

(書いている途中で気覚きました。これ、なんとなく感じていたお題のニュアンスから、かなりズレてる気がしますが、引き続き「野戦と永遠」読むのでご容赦。)

Twitterでお世話になって、最近はGoogle+遊んでもらっている小津坊乙さんからのムチャ振りで、夏休みの課題図書よろしく佐々木中の『切りとれ、その祈る手を』という本をポチって読んだわけですが、普通は他の本もパラパラやりながらなんですけど、これはほぼ一気読みでした。思えば私、生まれて初めて株式会社の社員になってからこの10年、全くこういった思想系みたいなところをキャッチする情報のアンテナなんざ降ろしておりまして、佐々木中のことも知りませんでした。
読書にはとにかく刺激を求める方ですが、刺激的な読書というやつともとんとご無沙汰でした。
記憶に残る一気読みといえば、3年ほど前の『コレラの時代の愛』の後半150ページと、一昨年末から年が明けるまで、小説といえばスティーブン・ミルハウザーばっかりチマチマ読んでいたと、この程度です。あと他に、ここ5年以内に初めて名前を知った小説家で心に残ってるといえば、貰い物の時代小説で北原亞以子ですか。NHKでドラマもやってた『慶次郎縁側日記』は、多分あらかた読みました。
全く久々の思想書というか、いや、『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』が文庫本で読める時代ですよ。貧乏だった頃にうへぇとなって、図書館で眺めた本も色々文庫で出ているんですが、だからってあなた、こちとら仕事も忙しいし、やっぱり難しいもんは難しいわけで、気合い入れて一気読みとかできるわけないわけです。パラパラと拾い読みです。はい。

で、そんな風に一気読みした『切りとれ、その祈る手を』なんですが、これがしかしまぁ、全くいけすかないアジ満載のパンフレットなわけです。
アマゾンでポチってから本が手に入るまでのタイムラグで、佐々木中の顔とTwitterアカウントだけは把握していたんですが、なんだか今風な容貌をした愛されキャラの新鋭思想家が、編集者を前に語った五日分の夜話という体裁。
本になるまでの当然の作業として、喋ったことを改めて構成しなおしているんでしょうけれど、喋ったんじゃないの?喋りとして成立していない風な言葉運びにわざわざ直してどうするんだよ、語りの言葉として書き直している以上、こんなモノローグがあるかこの野郎!って箇所がポロポロと見られて、これなら喋ったことを書き起こしてもらった後に、きちんと普通の文章として書き切りなさいよ。というのが一番素直な感想です。
ただ、それがまるで駄目かというと、なんともいえない小気味良さでして、とにかく毎夜尻上がりに景気良くアジる。最終の五夜目ともなるともう、笑えるくらい痛快です。とにかく『真面目に読め!』『真面目に読んだからには、必ずややむを得なくなるから書け!真面目に書け!』『世界は終わらないし文学も終わらないんだよバカ!終末とか言ってキャッキャしてるとかバカだろ!バカ!おまんま代は別のところで稼げバカ!』とか、概ねそんなことが書いてある本です。
まともに書いたら喧嘩になりますよ。きっと。佐々木中の言ってる「文学が終わったとか言ってるくせに文書いておまんま食べてる連中」呼ばわりされてる人達は、真面目にやってる人ほど、カチンとくる筈です。
こちとら、これっぽっちも賢くないアート系崩れなんで、全くカチンとも来ないんですが、結局なんでしょう。これ、昔かぶれまくったオジサンにとっては、なんだか普通のアジ本ですわ。

読みながらいろいろ小難しいことも考えたんですが、詰まるところ、これ、田舎の高校生には素晴らしく良い本ですよ。俺も田舎の高校生だったんで、本当にそう思います。
思えば私、高校生ぐらいで文学にかぶれまして、その頃は別冊宝島で現代思想入門みたいなのも出ていて、平積みになってた様な時代ですよ。朝日出版社の復刻版の『リゾーム』が多分高校2年生の夏ぐらいです。学校の勉強できないアホな高校生だったわけですけど、なんか変な装丁の長細い本から、どうにもわけのわからない刺激だけを感じて、なんだよこれ!わかんねぇよ!フロイト読めばいいのかよ!どうしたらいいんだよ!フーコー?フーコーってのを読めばいいのか!?とか、そんな風に激しく迷走した挙げ句、ボルヘスにはまって、マルケスにやられて、気覚いたら演劇とかやってたという有様。
そんなこんなで、30歳になるまでベケットになるべく戯曲書いてたもんですから、ポストモダン以降だろうがなんだろうが、きっと悲劇はまだまだ世の中に存在できる。とか、普通に信じて淡々と迷走していたもんで、『切りとれ…』第三夜の終わりに終末論を否定するべくベケットが引き合いに出て来て、ホラ見たか。終わらねぇのよ。で、ハナシは続くぜ。ときた日には、ついつり込まれて「だよね。終わるわけないない」と、なんだかちょっと嬉しくなってしまいました。

申し訳ないくらい個人的な読書経験のおかげで『切りとれ…』の第一夜が、「俺ハカセ!俺は読みまくってるぜ!お前らもだろ?」って感じで読めてしまったもので、客席を温めるつもりの威嚇射撃なら、これで十分という手応え。この手の点呼に対しては「先生。一応、予習してありまーす」と小声で応えられるし、こちとら全く勝負の場所でもないんで、気分的には適当な目立たない席で鼻くそほじりながらです。そこにもってきて、読んだ事ある様な人が沢山出て来た挙げ句、文学とはという定義を散々喋ってから、膨らむからと寸止めして、ヴァージニア・ウルフですよ。先生、過激そうに見えて、やっぱり気を使ってるんですわ。初日の威嚇射撃ってのは、そうあってほしいものです。
後もうずっとそんな感じなんですが、こういうのも「うひょー!アカデミックだぜ!」って経験を通って、まだまだ現役で思想書を追いかける人とか、勉強している人には、「おめぇ何を今更その程度のもんをひけらかしてんだよ!」と、ストレートにうざがられるかもしれない。
でもこれ、煽動用のパンフなんで、真面目に読む本じゃない。喧嘩になりそうな表現をわざわざ柔らかくして、いちいちこれだけのお歴々を並べ立てるなんて、なんだか大げさだなぁと、全夜を通じて一種の娯楽の開始宣言として受け止める人もそれなりに居たのではないかと、そう信じたいものです。

あと、これまた本が届くタイムラグの間に見かけたんですが、情報云々でブツクサ言ってる人が居ました。情報なんて今も昔も受けなかったらそれで仕舞いですよ。インターネットだって、基本的に自分でそれがありそうな場所に近寄らなきゃ、要らない情報は入らないでしょ。自動的に脳に入ってくる電波じゃあるまいし、情報化の波とか、ひょっとしてパソコン立ち上げたら自動的にブラウザが立ち上がって、世界の情報を網羅したニュースサイトのトップページでも表示するのかと、そういったレベルの批判しか見受けなかったので、この点もスルーです。

ところで、革命ですってよ。革命。世界は終わらない。安心して読んで書いて革命せよ。って景気いいじゃないすか。
正直、世界を革命できなくてもいいんですよ。そんなことは、そういうところで勝負しておまんま食いたい奴に任せておけばいいんです。ただし、君はどうなんだい?って問いに対して、どこまでうざく即答できるかって、やっぱり大切なことです。
ビジネス書とか沢山あるじゃないですか。おんなじことに対するハウツー本が何冊もあって、それを何冊も読んで目からウロコ落としてる人が居るんですよ。刺激を受けるとか本当か?とか思うわけです。
正直なところ、物語に対しての不感症はただの教養の欠如で、感性とか素養の問題じゃないと私信じています。だから、ラノベから出ない奴も、恋愛映画が見られない奴も、基本的にはただ知的な好奇心に欠けている様にしか見えない。
本を読まないし、それと仕事が切り分けられている実務家のハナシは非常に具体的で明快です。つまらなくても。時間の分の深みはある。でも、絶えずビジネス書を必要としている割に複雑な物語を読むところまで到達していない奴らのハナシは、大雑把にはそうかもしれないけれど、そこってあまりにも普通に言われ過ぎているわけだし、そこからスタートするの?的なことを、さも重要そうに手繰り合わさせられたり、ただの逆張りだったり、無自覚に一人称が複数形だったり、『切りとれ…』でいうところの終末論めいた下品な切迫感に操られていたり、みつをだったりして、どうにもなりません。何のことかわからないかもしれませんが、教養のある大人の口走ることじゃないうえに、現実の時間の分の深みも無いわけです。

『切りとれ…』にはアジなりに良い事がポツポツ書いてありました、その中の一つに、ようやくこの本のおかげで自分でも言語化できた問いがありました。

読んだらからには準拠できるか?準拠できてるかどうか怖くなるくらい読んだか?準拠してるか?マジで準拠してんのか?

何百冊のハウツー本を読んでいると自己紹介する人に、「で、何に準拠しているの?」と聞いて即答できるか、本当に聞いてみたい。ただ消費する行為で何処かに流れ着くことはあっても、明確に自分を変える力なんて無いでしょ。
これだって、所詮は自分の中にもともとあったものが明確になっただけですよ。そう思えば、余計に自分が何に準拠しているのか、さらにどう変わるのかってのは、非常に重要なことですが、ここまでわかりやすいと、この本だって、哲学でもなんでもないハウツーです。昔の偉い人を並べて、どうだ!読め!書け!革命だ!とか、脅迫しているわけです。

なにはともあれ、読め。で、書けよ。おまえらも。どんな状態がやばいかはこの本に書いてあるし、この後も佐々木先生が優しく教えてくれてるかもしれないから、とりあえずいいんじゃね?と、そんな次第。

大人は手遅れかもしれないので、20歳ぐらいまでの若者にオススメです。こんなに優しい先生の本はオジサンが高校生の時には無かった、善し悪しはともかく、オジサンは若い衆が羨ましいです。

沢山人が出て来てよくわからない?そのわからない不安が消える程度に、出て来た奴の本を読んでから、再スタートすればいいんだよ。

2011年8月21日日曜日

本当は、もっとお気楽なブログを書く予定だった筈……。

本当はもっと高い頻度でお気楽なブログを書く予定だったのに、すっかり間があいてしまった。
8月が凄まじいスピードでお盆に突入し、今に至るまでにネタになりそうなことが無かったかといえば、地方再生ブランディングをネタにシンクタンクに潜り込んでいる男の胡乱なハナシが現在進行形過ぎて触るに触れられなかったり、DVDで見た『イップ・マン』の敵役が、1は日本軍、2はイギリス人で、その描かれ方については非常に興味深くはあったものの、お盆の時期といえば全国的に戦争の記憶を喚起する流れがある上に、「まんべくん騒ぎ」もあって、ネタにすることが憚られたりという有様であった。
他にといえば、ケーブルテレビで『サマーウォーズ』を偶然見かけたのだけれど、傑作と名高い割には全く楽しめず、途中で見るのをやめてしまった。これに関しては、なにがいけなかったのかを後で精査したいが、一応『映画館で見た映画じゃないと見た中に入れちゃダメ』という師の教えを遵守する方向で、少しおちついて切り口を探したいと思う。正直、アニメの文脈とか、全く押さえていないので、その辺ももう少しきちんと押さえてからというところ。

8月に入ってからは、ずっと佐々木健一の新書を平行でパラパラめくりながら、幾つかの本を行ったり来たりしている。前半はカルヴィーノの『アメリカ講義』こちらは朝日新聞社から出ていた『カルヴィーノの文学講義』に補遺を加えて岩波文庫から出たもの。補遺と解説目当てで買ったのに、思わず読み返している。
お盆辺りからは、これまた岩波の言語の科学シリーズ『談話と文脈』こちらは学生の頃バタバタと読んだ記憶しかなかったのと、最近どうも文脈のハナシばかりしているので、確認の意味で。
物語への欲求はSFマガジンと、八犬伝でどうにかしている。八犬伝、面白いんだけれど少しだけ脳みその別の部分が必要な様で、なかなか進まない。八犬伝が進まない問題は文庫というサイズにもある様に思う。

どうも読書が後ろ向きというか、5月頃からこれまでのネタの再確認めいた作業しかしていない。と、思っていたところ、G+で小津坊乙さんから、ちゃんと読み込んで感想をブログに書けとのお題をいただいたので『切りとれ、あの祈る手を……』をポチった。
あらら、この本の著者の佐々木中って同い年ぐらいと思っていたら、俺よりほんのり年下じゃないか。
ずっと気配はありましたが、本格的に自分より賢い年下の人間に色々と教わる年齢になって参りましたよ。

2011年8月20日土曜日

Facebook系の流言

先日、FacebookのウォールにFacebook関する流言が二つ同時に入って来た。
どちらも興味深い内容で、伝播経路も違うので、元を追いかけてみたりしながら、Facebookのノートで『Facebook系の流言が二つ同時に目に入る日とか、面白過ぎたのでメモ。』とG+の方にもざらっと所見を書き留めたが、追跡が一段落したのでまとめなおす。

流言のひとつは、Facebookがhttpsで接続できる様に、ユーザーに通達無しで仕様変更したという内容のもの。
(実名某からの情報という前置き)
...Facebookがまたユーザーに通達なしで、システム変更をした模様です。
今ご覧のFacebookページのURLが(画面の一番上です)、
「https」から始まっていないとハッキングの対象となるそうです。
「http」か「www」で始まっている場合はセキュリティの設定を変更して下さい。
(変更の手順と拡散してくださいというしめくくり)
この件、Facebook内の情報の伝播や寿命という面でとても面白い。
ざっくりググってたところから手繰って確認できる最初の投稿が8月初旬。そこから、Yahoo知恵袋への質問投稿が8月11日。ブログやノートにこの件で私と同様、「目にするけど気になる」的なまとめを行なっている人が出始めているのを確認できたのが14日以降、私がウォールにこの件で書き込んだのが18日。
この情報自体は2週間以上生きていて、これからも恐らく広まる可能性があり、「Facebookがまたユーザーに通達なしで」という部分の表現が柔らかになった類型も確認できたうえに、誰からの情報か、実名を明かさない形のものも発見できた。
Facebook内での個人のウォールやグループのウォールでのこういった情報の伝播が、以外にも鈍足でそれなりに長寿命だということが伺い知れる。

ちなみに、Facebookにおけるhttps利用の拡大云々は、今年の1月の末頃にアナウンスされているし、これのせいで、アプリの作り方が悩ましくなっている件は春頃から言われていること。
公式のFacebookを「安全に利用するために」のページは4月頃に大幅に更新されている。
この流言の元になる様な設定画面とか、何かのアナウンス、アラートの変更でもあったものか、発端になった何かについても知りたいところではあるが、このコピペは、あまり質の良いものとはいえない。言うなれば、「善意のチェーン情報」とでもいうべき代物だ。

発信源となった人物を確認しているわけではないので、この情報がFacebookに対して悪意を含んでいるかどうかは判断できないが、『またユーザーに通達なしで、システム変更をした』というネガティブな切り出しから、『「https」から始まっていないとハッキングの対象となるそうです。』という流れで、Facebookに通常のWeb接続をしていては、クラックされる可能性があるという風な印象を持たせる流れになっている。
『〜となるそうです』という伝聞調が、システムの変更によりそうなったらしいイメージを強調する上に、この情報の発信源となった人物の他にも第三者的な視点からもそんな指摘があったと、情緒的な部分に訴える説得力を持たせており、斜め読みでの把握が非常に危険な文章といえる。
重ね重ね、発信源の意図は確認していないが、この手の伝聞調で責任を回避しつつの注意喚起というのは、そもそもオーソドックスな流言のスタイルといって差し支えない。

この情報拡散には、士業系やIT系っぽいアカウントが一役買っている場合も見られて、それがまた興味深い。斜め読みでのひっかけを練り込んだ文章や「友情な情報なのでシェア」という合い言葉での判断放棄について考えさせられる。

セキュアな接続云々という点の解説を省くとするなら、この程度の表現に止めるのが妥当ではないだろうか。

Facebookで、ブラウザとサーバ間の通信を暗号化して行なうhttpsの利用範囲が拡大されています。
アカウントの設定項目で基本的にhttpsのみで利用できる様になっているので、これまでhttpで接続していた人も、念のため、httpsで接続する設定に変更して、これを機にパスワードも変更しましょう。
(以下手順)

流言だということはさておき、内容的にはIT系の業者でよほど「仕事はデザインです。デザインしかしていません」という人でもない限り、そのまま拡散するのはいかがなものかという内容の文章だ。鈍感なユーザーのためには『ハッキングの対象になる』という強い脅しがどうしても必要と感じるならば、暗号化しないでサーバとの通信を行なう云々の部分で何か工夫すれば目的は達成するものと思う。

とはいえ、Facebookをhttpsによる接続のみでの利用する場合、ゲームなどのアプリを利用する場合はhttpでの接続に戻される場合がある。
以下のページが表示されて、通常のhttpでのアクセスに切り替わる。
Facebookの解説によれば、自動的にhttpsに戻るとあったが、このページではログインしなおせとなっており、実際に自動的にはhttpsに復帰しないので、注意が必要だ。

もうひとつは、『Facebookが勝手に招待メールを友達に送信する設定を解除する』というもの。
こちらは、Blogが発信源となっている様で、httpsによる接続の件に比べて様々なプラットフォームに拡散しているが、Facebook上で拡散があるとするなら、恐らくこれからだろう。

Facebookが『すでにFacebookを利用している友達を探しましょう』という甘言でメールのアドレスブックのデータをインポートさせ、本当に友達を探してくれたり、Facebookをやっていない人にメールを出してしまったりするのはそれなりに悪名高い事実だと認識していたが、そうでもなかった様だ。
アカウント登録時に出る画面

アカウント登録後は「友達を招待」になる

この件は、メールをやり取りしている相手の連絡先をFacebookにインポートする操作をしない限りは、招待メールが行くことは無いという事実をスルーしてることが悪質だ。
やりもしない操作を自動でFacebookがやっているかもしれないという不安を煽り、実際に連絡先をインポートしてしまっているかを再確認する手順は抜きで、Facebookの設定でFacebookをやっていない友人に対して、2週間置きに案内メールが行く設定になっており、それがそもそもおかしいので、この設定を直そう。と、根本とズレた解決策を提示する。
つまり、連絡先のインポートを行なわなかった人に対しても、空騒ぎを誘発する構造になっている。

内容的には以下の流れとなる。
1. Facebookへの招待メールが自動的に送られる。
この部分、何がトリガーになるかは解説無し。
とにかく自動でメールが行くという印象を与える。

2. 招待に応じなかった人に対して、2週間おきにメールするという設定があり、Facebookをやりませんかというスパムを自覚無く送ることになる。
これが解決策として提示される。
なんで招待メールを送るというのがデフォルトになっているのかというツッコミで、Facebookに対してある種の不信感を煽る場合もある

3. 2週間おきにメールを出すという設定の変更は以下の通り。

完全な嘘ではない二つのことがつながっている。

「Facebookが自動でメールを出してあなたの信用を危うくする」

「変な設定があるからこれを修正」

2週間置きに案内メールを出すというデフォルトの設定は突っ込みどころとしてカウントすべきだが、そもそもの問題として、インポートの操作を行なわなければ自動でメールは出ないので、解決策としてはインポート済みのアドレスをFacebookから削除することを紹介すべきだ。

連絡先のインポートは、アカウント登録時に登場する他、アカウント登録後は「友達を編集」→「友達を招待」→「メールの連絡先をインポート」とクリックして、更にその先にも操作が待っている。そんな場所に設置された機能だ。
Facebookのこの機能にある問題点は、「インポートしたらどうなるのか」という事を知るチャンスが、インポートを実行する流れの中で、最後になる操作画面からの小さなリンクが最初で最後だという点。
連絡先のインポートをやってしまう可能性が一番高いアカウント登録時に『既にFacebookを利用している友達を探しましょう』となんとも優秀な誘い文句はあるものの、実際に連絡先をインポートしたらどうなるかという説明が、インポート実行前にきちんとされないことだ。

情報の質という意味では、『https』『メール送信』ともに、無知に対して不安を煽るタイプの典型の様なものなので、細かい事を人に教え疲れたIT系の人間には、気になりながらもスルーしている人も多いものと思う。
この話題は、Facebookの操作というよりはWebの通信や、情報をどうコントロールするかという部分に関わっていくため、きちんと解説しようとした瞬間に、「Facebookの話しなのに、なんだか難しいことを言い始めた。手順を教えるか、もっとシンプルな反応はできないの?」という無惨な反応を得ることも容易に想像できて、面倒なことこの上ない。

Facebookを利用しているユーザーには特に、具体的な「使う」というイメージが希薄なまま、「使いこなせない」という先入観を抱え、ある筈の場所にボタンが出たり出なかったりするIEを使って、Facebookの迷宮と対峙している人も多いものと思うので、これを相手にしたくないのは理解するが、こういう流言をきっかけに、少しでも多くの人にWeb技術の基本的で少し面倒な部分を知ってもらうのも、悪い話しではないように思う。

2011年8月5日金曜日

スクリーンツーリズムという言葉を利用して何をするか

8月2日に、富山のサンフォルテで行なわれた『スクリーンツーリズム&観光ICTシンポジウム』を見てきた。
もっと濃い展開になるのではないかという面々が登壇していたものの、微妙に入り口付近をなめただけで終了の時間が来てしまった様な内容だった様に感じる。

スクリーンツーリズムとは上手く片仮名にしたもので、要は映画のロケ地を観光地として利用しようというものだ。『冬のソナタ』がヒットした時の韓国へのロケ地ツアー。逆に、韓国、中国からも日本が舞台になっている映画のロケ地への旅行が話題になっている。アニメの場合、このロケ地ツアーを聖地巡礼と言い換え、2000年代半ば頃からアニメファンの間に、作中に登場する場所に行ってみるという動きが見られる。
富山県であれば、『true tears』の舞台として風景が利用された城端がまさに巡礼先になっている他、今年公開され、各地で単館上映が続いている『ほしのふるまち』でも、原作マンガの時点から舞台となった氷見市内で、背景に利用された場所を巡る人の話しを聞く。

地域にとって、映像、マンガなどのコンテンツを観光に利用というのは、果たしてどの様に実行していくべきなのか、個人的にはその辺りがいまひとつ理解できないでいる。
例えば、私が住んでいる氷見市であれば、巨匠今村昌平の『赤い橋の下のぬるい水』のロケ地で、この作品はカンヌにも出品されている。
この映画については、内容が大人向け過ぎてちょっと使えないというのが正直なところだろうか。タイトルにもなっている「赤い橋」は現在、この橋を赤く塗ったのは塗装業者ではなく、美術スタッフだ。ということがわかる塗装の剥げ方をしており、非常に味わい深いたたずまいになっているが、特にこれを、氷見に来たら見ておくべきものというPRはされていない。
『赤い橋の下のぬるい水』公開当時はPG-15とはいえ、観光客で15歳以下というのは、明らかに氷見市のターゲットではない。むしろ、赤い橋自体は整備しなくても、氷見を訪れて初めて作品を知り、帰宅してから『赤い橋の下のぬるい水』を見て、再び主人公を演じた役所広司の気分で氷見を訪れる50代、60代のおとうさんたちのリピートのきっかけとして、利用できるのではないかと考えるのだが、いかがなものだろう。
ターゲットへの訴求という意味では、どの様にしてターゲットのコンテクストに入り込むかが重要になるのだから、作品そのものが大人向けの良作であればこそ、大人への訴求という条件は十分にクリアできているものと考える。

スクリーンツーリズムは、要は「映像作品の追体験をロケ地でしませんか」という提案で、映像作品を旅のきっかけとして利用しようということに尽きるのだと考えるのだが、そのきっかけとなる映像作品自体は、舞台となる地域には全くコントロールできるものではない。ただ、自分たちにも理解できる、都合の良い良作が次々に目をとめてくれることに期待しつつ、フィルムコミッションを作ってみたり、淡々とロケ地として相応しいと思う場所を紹介してみたりというのは、いつか王子様がという姿勢に見えてしまう。受け皿は無いよりもある方が良い。しかし、積極的に利用する方法については考えられているだろうか。

シンポジウムでは、プロデューサーの阿部秀司氏が、映画を作る時の予算について10億単位の話しをしておられたが、単館系の映画のスタートなど、未だに手弁当だったりとにかくかき集めた300万とか500万という金額でスタートしている。
私がかつて『おそいひと』という作品の企画を立ち上げたときも、若手の芸術家を支援する基金から得た300万円がスタートの資金となった。
先日、この『おそいひと』の監督、柴田剛と会って直近の企画書を見せてもらったが、自分たちで資金調達もなんとかするということで、1200万を調達できれば御の字という規模で計画していた。しかも、最悪パイロット版の製作ということで、300万程度でロケハンとシナハンしながらとにかく撮影するパターンも……。という有様である。柴田の作品は『おそいひと』以降、普通に海外の映画祭にも出品され、現在では長編第一作『NN-891102』にも出品依頼が来る。しかし、国内的な知名度という意味では全く無名だ。
この映画の企画書を柴田剛と一緒に作っていたのは、結構長く続いたビデオシリーズなどを製作していた監督だ。TSUTAYAに行けば彼が製作したDVDがずらっと並んでいるが、それでも恐らく彼自身の名前を知る人は少ないだろう。

昨年、日本の映像文化の発展を促進する公益財団法人ユニジャパンが、まさしく「スクリーンツーリズム促進プロジェクト」としてシナハン、ロケハンに100万円以内という助成を行っていた。柴田剛らが考えていた、ロケハン、シナハン自体を作品に直結していくという方法であれば、この規模の助成が取れればパイロット版作成の1/2〜1/3の資金調達が完了することになる。
映像作家や作品にフォーカスして、情報収集を少しだけ真面目にやれば、国内上映作品のアーカイブやどんな監督がどんな作品を撮ったか、どんな作品が国内ではあまり上映されていない割に、海外に出ているかという事には簡単に辿り着くことができる。そんな意味ではICT活用の基礎部分は整っている。
昨今のアニメーションの公開形態を見れば、従来のスキームにこだわらなければ、パブリシティやマネタイズの面でも、映像作品とICTの親和性は十分に高いことは見て取れる。

映像作品に関わることで何かをしようと考えるのであれば、その根本となる「作品を作る」という点に注目すること、つまり、受け身をやめてスタートを押さえるという戦略は十分に検討の価値があるのではないだろうか。
幾らの予算で、何本の映像作品を世に送り出し、例えばそれを富山県のPR、観光誘客に利用するという長期的な積極策は、十分に立てられるものと思う。

2011年8月3日水曜日

Webでのネタ収集と、入力出力の関係。

Facebookで「先生。Evernoteみたいなアウトラインプロセッサが欲しいです。」と叫んだところ、「ブログでまとめたまえ!」とお題をいただいたので、Evernote絡みで入力と出力のネタ。
Evernoteの利用を早々に諦めた身として、何がいけないと思ったのか記しておくことにする。Evernoteの使い方としては間違っているのかもしれないし、それも含めて突っ込みを待ったり、何かを考えるきっかけになれば良い気もする。いや、どちらかといえば「Evernote使う順序としてはこうでしょうが」とか「そういうことなら。このツールを使ってみなよ」という優しい識者の登場に期待!「人それぞれ」じゃ主に私が前進しないので、よろしくお願いします。

現状、誰かとの情報共有にはDropbox、Facebook、Chatter、G+を利用している。
個人的には適当なテキストエディタと、JustNotesの組み合わせでテキストのネタをデスクトップ、ノート、iPadで持ち歩き、他のファイル形式はDropboxに放り込んでいる。
客先に納めるものは、ほとんどがサーバに入れて納品を完了するか、それと同じものをCDに焼く。HTMLファイルと何らかの言語のプログラムファイル、それにjpeg、gifなどの画像ファイルだ。ドキュメントは何で作成しようが、PDFにして納品する。動画を求められた経験は無いし、Flashも最近は全く作らない。出力に関する事情はそんな次第。

2年前、Evernoteを使って、これから構築するサイトのイメージを関係者と共有したのが積極的にEvernoteを利用した最後の経験で、そこですぱっと見切りをつけた形になる。
とあるジャンルに限定して資料性のある記事やリンク集を内容とする、全部で100ページぐらいの規模のサイト構築の案件だ。この準備段階で、国内にある類似のサイトが、何を掲載しているか、どんな形式のサイトになっているかを順番に調べていくことにした。
ここで、Evernoteの登場である。Webサイトを調べると同時にクリップしていけるので、非常に調子良くネタは集まっていく。
順調に見えたが、問題は早々に起きた。
Webサイトの制作には、「Home」のページ以下の階層構造とナビゲーションを考える必要がある。ネタはWebサイトを作る参考として共有していたので、ある程度ノートを階層化して把握したくなったのだ。タグを付けていったとしても、そのクリップに到達はできても、他のノートとの階層の関係は把握しづらい。
ノートブックとノートの先頭に番号を振ったが、順番は整理できても、一覧性も確保できないし、並べ替えやネタの追加で、焼け石に何をかけているやらわからない状態になっていった。
これから制作するWebサイトの階層構造のイメージの共有が、他サイトが扱うネタの傾向の確認と同時に出来れば、一般的にカバーされている情報の量やサイトの導線に対して、自分たちの独自性も考えられる。それが、集めた余所のネタを整理するだけで、共有できるかと虫のいい期待をしただけに、非常に残念だった。

集めたものの整理が直感的でないのならば、何らかのファイルにしたものを、フォルダで整理して、Dropboxに放り込んでおく方が格段に便利だ。
階層も普通にできる。ファイル名のリネームツールもある。各ファイルへの到達性も、フォルダ名だけでなくファイルの内容で検索する方法もある。
普段も特定のファイルへにたどり着くために、MacOSのファイル検索機能を利用しているが、これまで問題を感じた事はない。

さて、クリップと共有がイマイチなら、次は書く方だ。と、思ったがこれも実はタグの階層化とそりが合わないために利用を放棄した。
普段の手順通り、構成を考えて箇条書きにし、資料を横目やインラインにしながら書くわけだが、前回の反省を元に、タグで管理しながら章ごとにノートブックを分割して……。やはり、Evernoteのタグは、あくまでも放り込んだクリップに到達するためのもので、そこから先は無い。1クリップ1小ネタの厳しい掟でもあるのか、拾ったものにメモ以上のものを加えようなどという考えは、やがて盗用につながる暗黒面だとでもいうのか。そんな風に勝手に疎外感を感じて、Everoteの利用を諦めたものである。
Evernoteを横目にという発想や集めたネタを再びエクスポートしてという選択肢は無かった。横目なら最初からファイルを開いてウインドウに並べておくし、インラインでやるなら、書くツールの行き来は面倒だ。

私の場合、何かを書く場合は常に何を書くかのテーマが決まっていて、後は構成を考えて、ひたすら文章化していくという作業になる。漠然と書くとなっても、構成の箇条書きをしながら、書けそうな場所や書く材料のある場所は少し文章を書いてみるという進め方になる。アウトラインプロセッサの出番だ。
題名があり、内容があり、場合によっては起承転結であったり、序破急であったりするものを作成するにあたって、階層化して全体像を把握することは、非常に便利なやり方だ。
Evernoteの2ペイン、3ペインになる画面も、拾ったネタを探すべく絞り込む機能が主で、「ネタを集める」→「ネタを整理する」→「自分のものにして出力するという」。この、最後の出力のプロセスはカバーされていない。ノートは原稿用紙ではないし、情報を手元に置くということは、出力とは無関係だということだろうと、勝手に解釈している。

実は、この不満点は、ノートを最終的な出力の雛形として階層化し、グループ化する機能が加わるだけで、一瞬で解決する。弊社のプログラマーが車輪の再発明を厳しく戒める男でなければ、投資を募ってEvernoteを追撃したいところだが、現実的には淡々とツールの組み合わせでいくしかない。
この後に及んでなお、Unixの思想恐るべしである。

2011年8月1日月曜日

Web上に何かを出力するスタンス。

Twitter、Facebookが日本国内でなんとなく定着して、それぞれの使い方が模索されている中で、ブログやmixiを辞めたという話しも普通に耳にする様になって久しい。
日本人は、Blog登場以前からWeb日記を公開して互いの日常を報告しあうという習慣も持っていたわけだが、それを当時話題になったSNSにしっかりと組み込んだのがmixiだったと考えている。

Web日記と、それを書きたい、読みたいという日本人のメンタリティが大きく変化しない限りは、mixi自体がどうなるかはともかく、mixi的な場は無くならないだろうし、それぞれのプラットフォームの持つ時間性や、場の特製を考えると、Google+の今後の最適化を以てしてもBlogとWeb日記が消えることはないだろう。
Twitterが流行した時に放棄されたブログやWeb日記は、実際のところ筆者にとっては、時間性のそぐわない出力先だったのかもしれないと推測している。
これは、何を書いていたかというよりは、どんな姿勢が筆者にとって自然で、最適だったかということに直結していたということだ。
日々の細かなネタの報告であれば、実際、Twitterの軽さと速さ、フォロー関係の適度な距離、それが練れてきた際の類は友を呼ぶが故の居心地の良さは、十分な満足感を与えてくれる。写真との連携も容易で誰かからのコメントも軽く得られる、素晴らしいプラットフォームだ。
同じ理由で、mixiで充足しているユーザーは、現時点でもmixiから別のサービスに移動する必要を感じていないものと思う。

何故、そこに出力するのかということを考えた場合、その全てを承認欲求と片付けてしまっては少し寂しいものもあるだろうが、自分が見た事、聞いたこと、自分の考えを誰かに伝えたいと思うこと自体が、全ての出力の原動力だと思われる。
いろいろな意見はあるだろうし、数字としてアクティブユーザーの動き云々というデータもあるかもしれないが、人と人の自然なネットワークというのは、結局は類が呼ぶ友であり、同じ匂いの仲間というものにどうやったら会えるのかということに尽きていく。
IT系の仕事をしている以上、ここに商用、ビジネスでの利用という要素を加えて考察しなければ、誰からも評価されない日記になっていしまうのでもうひと頑張りするが、果たして人は、自らの特性をしっかりと見極めて出力しているのだろうか。また、それをきちんと指南してくれる業者や参考書と出会えているのだろうか。
Twitterで人に絡まれることは、可能性として考えられる。基本的に、顔見知りから数hop程度にしか伝播しない筈のFacebookのコメント欄ですら意見の相違を目の当たりにすることがある。
何かの行動と良しとみるか、不適切と見るかは、そのまま、プロフェッショナルとしての姿勢の問われ方、ターゲットとしている客層へのアプローチに直結している。この点について、良い仕事をすると見せるために、どこまで口を閉ざしていられるかのバランスが、とても重要な要素だということを教えてくれる本や、そこまで突っ込んだ勉強会の類いは少ない様に思う。
となれば、結局はどこの企業で躾けられたか、起業前の経歴はどうかというスタートラインから日本の会社はなかなか抜け出せないのではないだろうか。

口を開けば、誰の仲間かわかる。その事実にあまり目が向けられないまま、これまで以上の人が、自分の時間性にあわせて公に近い場所で出力し続ける時代になっている。自分の作品を書くという初期衝動の実現からドロップアウトした身としては、いろんな場所にいろんな形式の出力先があって、非常に複雑な気分だが、楽しくもある。

FBに投下するのと同じ理屈で、Bloggerに投下する細工をしてみた。これが上手く...

FBに投下するのと同じ理屈で、Bloggerに投下する細工をしてみた。これが上手くいけば、久しぶりに個人のブログを再開してみようと思う。
会社のブログはどちらかといえば、書けないことばかりなので、いろんなお客さんに、ブログ書けブログ書けと言っている身としては、個人的なブログをいうものでも良いので、何かを書いておいた方が、説得力も増すかもしれないという判断であった。
書く事は山ほどあるのだけれど、果たして大丈夫なんだろうか……。
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【この欄に、思い切り投稿用のメールアドレスが掲載されていたので、削除!使えないじゃないか(笑)】