2016年9月6日火曜日

血パンダ公演『それはサイコロの一番大きな目ではないなにか』前口上

多様さというのは、というか、人はそもそも多様であるというのは、当然のことだと理解しているつもりでは居るのですが、概ね同じものを見て、同じ経験をしていても、人の見解というのは本当にまちまちなのだということを痛感する昨今です。

遠くのことだったり、いちいち立ち止まらなければ、どうってことはない気はするんですが、日常的に細かく違うことを目の当たりにし続けると、いろいろと考えなければならないことも多くなって、個人的には楽しいんですが、こういうことをストレスに感じる人も居るんだろうなぁと、ほっこりしております。

「なぜそんな風に考えたの?」と改めて問うてみると、そんなものを根拠として採用して行動を開始したのか……。と、びっくりする様な場合や、話しを聞いていて、ところどころで、「あ、ここで考えることをやめた」と見て取れるキーワードと出会うのがまた人の罪深いところ。
なぜ、この人は、なんの話しをしていても、そっちにいってしまうんだろう。
と、なかなかそこまでの極端な人に出会うことは少ないですが、人というのは果たして、何らかの糸口を見つけて相互理解を進めていくのが良いのか、関係性というのはどの様に形作られていくべきなのかと、あ、悲劇は既に人の関係性の中にしか存在できなくなっているという血パンダの大テーマに囚われている私の目からは、なんせまぁ、いろいろそんな風に見えてしまうわけです。

いやはや、明日ってなんだ。どっちだ。

2016年8月26日金曜日

力加減について考える

なるべく平易な文章で書くブログというやつを、持っている中で一番長く確保しているドメインで建ててみたものだが、実は7月の最後のエントリー以降、ずっと小難しいことを考えていて、ではそれを噛み砕いて書くとなると、それはそれで仕事の内容にも触るので非常に都合が悪い上に、こちとら日常の中にはろくに打ち込んでいる趣味も持たないので、書けることはあるけれど、ちゃんと平易にはとてもできないという、大変困った状況になっている。
読んだ本も見事に資料ばかりだ。中には非常に極端な与太本もあり、これだけ抜き出してなんか書くと、唐突にそっちに行った人になってしまいかねない。
平易なやつはここね。 http://shiratama.net/

毎度、当事者にしかわからかったり、慣れた人間でないと読めない暗号で書いているわけだけれども、先日ちょっとした自己申告というか指摘があったので書いておくと、書くときに読点は意識的に減らしているというか、ちょっと息が長めのリズムで書いている。
その方がなんだかんだで暗号にしやすい。
耐性のある奴と興味のある奴と当事者にしか入ってこない文字列のできあがりというわけだ、構造的にはもう幾つかのポイントはあるけれど、面倒なので詳細は推して知るべし。

なんだかんだでFacebookになんか書く理由も無くなってきていて、なかなか面白い状況。
来年の夏ぐらいまでこのぐらいの速度で、できれば向こう5年ばかり、このまま加速していけないかしらと思いながら居りますです。
いろいろ手伝っていただけるとありがたいので、案内はその都度。

2016年6月30日木曜日

なるほど、その神社でパワーを貰ったんですねとか言いたくなったら、懺悔の念をこめて俺の手伝いをしてください。ひきよせも禁止。

ものすごい偶然のタイミングで、先日、とある神社に行ってきた。
そこで少し認識を新たにすることがあったので、現時点の記録。

神様に何か祈願して、それが叶ったらお礼参りに行くわけだけれど、例えば商売繁盛みたいなことをお願いして、繁盛したお礼に手ぶらで行く人は居ない。ありがとうございましたと、いう感謝の念と奉納するものもお金も、繁盛の度合いによって増えていく。
そういうのが夥しくなれば、放っておくこともできないので、神社という「場」は、当然神域ということで清浄にされ、盛んになる。盛んになればそれは単純に「ご利益」があるって話しになり、そこには益々人が集まる。
かなり乱暴な略だけれど、見て取れるものを言葉に変えるならこういう循環だ。

様々な場所で人が集められ、そこで「場づくり」や「チームビルディング」が意識されている。その場で得られたことに対して「目からウロコだった」とか「気づきを得た」とかいう決まり文句が聞かれるが、それが盛んになる神社のような循環を得られるのかといえば、誰かそんなことを意識しているだろうか。
感謝の念とか、ご利益なんてのは、神様相手のこと。人が集まって何かをする場合、そこのニュアンスはちょっと置いておいて、考えてみてほしい。
人が集まって何かをする場の循環。「世代交代ができない」とか「マンネリ」という言葉はよく聞かれる。
それを「魅力づくりに取り掛かろう」「マーケティングしよう」とかいう、できもしない具体性を欠いた思考停止向けの決まり文句で片付けるのではなく、自分たちができる範囲のことで、何をしていないかを考えれば、現状万全の対策を講じているということは、ほぼ無いのではないだろうか。足りないこと、やっていないことの把握と、把握したらやるだけ。それをしていない。
「できないからやっていなかった」ということもあるかもしれない。本当に必要なことなら、「できない」を「できる」に変えて実行すればいい。どちらにせよ、これまでと違って見えているのだから、暗中模索よりは格段にマシな筈だ。

2016年2月28日日曜日

血パンダ公演『夜は』前口上(2016.02.27)

文化を殺して金勘定だけを植え付けるから、ただ生きることから恋愛に至るまで、ありもしない利子の計算が始まり、人の関係はどんどん単純になっていく。
単純な関係しか知らない人間は考えることをせず、簡単に孤独になり、簡単に臆病になり、計算できる欲にだけ忠実になる。その結果、子供は全く計算不能なため、子供を作るという選択は消え、人は絶えていく。

シネコンができるから「街なかに映画をなくしてはいけない」ことが目的だったフォルツァ総曲輪が役割を終えて休館するというニュースに触れて、シネコンで上映される映画と、単館系の映画の違いもわからないという、マーケティングセンスを問う以前の、文化を認識する能力のあまりの低さに度肝を抜かれました。
9年間の映画館運営の果てにこの認識なので、問題は個人の資質ではなく、集団の、もっと致命的な部分にあるのだと考えています。

そんな中で、一般的な認識の枠を超えた場を作りたいというゴールドカレー富山豊田店のオーナー保坂さんから声をかけていただき、今回の公演が決まりました。
フランス料理店が舞台の『夜は』をカレー店で上演できる巡り合わせ。
劇場は最初からあるのではなく、演劇があればそこが劇場になるのだということを体験していただき、場とは何か、枠とは何かを考えてみていただくのもいいかなぁと、そんな風に考えています。

2016年2月24日水曜日

確かに、莫迦なことしてるなぁと思いながら遠巻きに観察することはある。やる奴はやられる。

演じている人間を見るというのは、幼い頃のままごとや、ごっご遊びから人間に刷り込まれた妙な決まりごとというか、習性の様なもので、とりあえずその良し悪しはともかく、演じている状態、演じているのに近い状態を目撃したら、心理的に一定の自動処理があるものだと思っていた。
それこそ、誰かがこう言っていたよと伝えるために、その誰かの発言の部分だけ、口真似まではいかなくても声色が変わる程度でも、それが演じられている状態だとわかる。
微細なものが判断できるのだから、あとはただ見るだけと思っていた。
ところが、世の中そう単純なものでもないらしい。
「バカなことしてるなぁ」というフィルターがあって、そこに引っかかると演じているもへったくれもなく「バカだなぁ」「楽しそうだなぁ」というところで判断が止まるという指摘を受けて、昨日目からウロコが落ちました。

亀吉という名の口パクのカエルから腹話術の練習を「手段の目的化」だと指摘される。

口パク人形が、ホドロフスキーの言葉を聞いて自我に目覚めたかの様にふるまう。

やりとりの内容も構造も、かなり長々と解説はできるものの、そんなことは敢えてするもんでもなし、確かにぶっつけ本番の勢いだけでやっているので、「いい大人がバカなことをしている」ムービーだ。
そうか「バカだなぁ」から先に行かないのか。
なんか作戦考えなきゃなぁ。まだまだクオリティ低いんだなぁ。

あ、真面目にやってる演劇の方の公演がまもなくです。
こちらもぜひ。『夜は』というお芝居で、フランス料理店のスタッフルームが舞台なんですが、それを営業中のカレー屋で演じます。あ、こういうのがいかんのか……。バカフィルターにかかる?バカフィルター?そういえば、『バカの壁』読んでないけど、こういうことへの対処法が書いてある?

血パンダのホームページ
http://blood-panda.net/
血パンダのFacebookページ(『夜は』のイベント立ってます)
https://www.facebook.com/BPchipanda/

2016年2月18日木曜日

箱の運営するってことは、作る側としては終わる気がする。そっちの方が嫌だわ。

映画館兼劇場って感じの文化の中心地の件。
思えばカレーフェスタやTEDxHimiも、ずっとこんな感じがスタートで具体化してやってきてるわけで、今回もそんなノリから始まりでいいじゃないかということだ。
本当に実現できるのかも含めて、ずっと継続して考え続けるし、何年かかってもいい。持ったまま時間経って、腐ってダメになるならその程度のものだったってことだ。
本当は、明敏な運営者が現れてくれれば、そっちの方が俺は自分のことができるので嬉しい。
興味があれば知恵と力を貸しておくれ!あ、金でもいいよ。

映画館兼劇場って感じの文化センターの件。これ実は、都会に出た若者が地元に戻ってくるためにも、結構重要な施設。
劇場がない。映画館もない。ギャラリーもない。公のものは全部埋まってて、現場は優秀かもしれないけど、窓口の奴はちょっとググって裏をとる気も無いのが通常のクオリティだから、何処のコロニーにも属してないみんなには受け皿が無い。皆無。

先に大家さんを発見するよりも、金の準備できてから大家さんにおねがいする方が良さそうだ。ネタの説得力としての金ね。大家さんが持ってるのは不動産だから、向こうはそうそう動けないけど、こっちは身軽。だからせめて、金の分だけでも重くなっておきたい。

クラウドファウンディングは、実際に運営を始められたら、その時には挑戦してみたいネタがあるので、立ち上げはとにかく泥臭いお金集めだ。

【最初の行動?お題ふたつ】
1.お金って、こんな場合どこから引っ張るもの?
自慢じゃないが、パソコンがあればなんとか仕事になるというレートの低さで、ちんたらちんたらやってるので、ちゃんとしたお金の集め方がわからない!
金主を探さなきゃいけないんだが、こんなね、ほぼ手ぶらでネタしかない場合、そもそもどうやって探すものかもわからないので、俺知ってる!って人は教えて。
能書きならある。プレゼン資料作る。えーっと……。事業計画も?まあ、そこら辺は任せろ。

2.みんなでゆるふわひきよせ!
みんなでロト買ってほしい。で、一等当たった人がいたら、当選金額の中から1億+αだけ俺にちょうだい。これ、多分、何気ない遊びで大勢でやると効く気がする。運命の束。束になってかかれば、なんとかなる気がするから不思議!

【おまけ】
フォルツァ総曲輪が今からみんなでギャーギャー言って存続するならそれはそれ、しなかったら、富山市で「文化」とか口走る役所絡みの人間と会うことがあったら、赤ちゃん言葉で優しく話ししてあげる。漢字やカタカナで喋るのもやめる。
これは、覚えている限り飽きるまでやるつもりなんだけど、みんなもどう?

2016年2月17日水曜日

いや、本当に文化との接点ってそんなに軽いもんじゃないって。無いこととか消 えることに慣れすぎ。

再開発しました。シネコンできるから3セクのミニシアターやめるね。というアナウンスの中に、「ミニシアターが担ってた単館系の映画の上映はシネコンで継続すっから」が無いってことは、シネコンでやる映画は、イオンやらファボーレのシネコンでやる映画と一緒かもしれないってことだし、フォルツァ総曲輪のホールの方を使ってる人たちも、そのまま解散でいいの?

なんとなくネット上を探してるんだけど、文句言ってる人をほとんんど見かけない。
Facebookの検索機能の弱さが恨めしいけど、本当にギャースカ言ってる人間が少なくて、そっちにも違和感感じる。というか、なんで文句言わないんだろ。

文化との接点を殺す、センスのかけらもない判断ですよ。9年もやっておきながら、思春期が大人の仲間になるだけの十分な年月を経たというのに、蓋開けてみたらフォルツァ総曲輪って場所から全くなんにも学んでなかったって雰囲気ですよ。
コンテンツの多様さとか、映画館の維持がとかいう決まり文句を持ち出す前に、シネコンとミニシアターの客層の違いが頭の片隅にあったのかすら疑わしいわけですよ。そこに集まっていた人やら客の顔が見えてないんだ。
富山市の3セクですから、富山市マターですよとかって言うんだったら、氷見市の魚々座みたいに、地元民と地元じゃない人間で料金傾斜かけるぐらいして、地元じゃない奴らはイレギュラー。でも、入り口まで来てるんだし、仕方ないから入場させてやるよ。って、そんなことしてないじゃないか。ってことは、金払えば皆等しい客だよね。やんごとなき納税者様には、市の広報かなんかで、ちょっとぐらい上映される映画の情報をあげてたの?

ギャーギャー言わないと、ほらね。一部の愛好家以外は、誰も文句言わないじゃんってなるよ。
ハゲが文句言ってるじゃん「いいね!」するよ。じゃないんだよ。
俺は、場を殺される側なので、完全に一部の愛好家よりも悪い、実際はあんまり関係ない利害関係者。
ハナクソにもならないノイズ。「なんか絡みたくて言ってるんじゃない?」って片付けてもオッケーなカテゴリーに入ってるんすよ。
今までも場所無いねって思いながら演劇やってたけど、自力でなんとかなるわってのも正直なところ。氷見駅前の工事が終わって、氷見キネマが再開したら、単館系のいいやつが回ってくるし、フォルツァ行くよりも近い。
それとこれとは別だ。別だよ。あの場所で、一回でもなんかしたやつ、一本でも映画た奴は、それが自分の血肉になってない。まるで無駄だったってんなら適当でいい。でも、そうでないなら、文句言うべきだ。血肉になったんだろ?おまえ、身を切られたぜ。
でないと、同じ様ななめた真似する奴が、近所で出てくる。平気だぜ。何人居ようが「市民」とは別扱いの「一部の愛好家」ってやりゃいいだけだもの。

文化、みんなの地元にあるでしょ。それだけで満足しとけよ。獅子舞とか曳山とか最高じゃん。映画とか芸術は、なんか適当にチャンネル用意しとくよ。業者も居るし、他にも代わりあるからいいでしょ。って、これはもう、マンガが無いなら絵本を読めばいいよ。嫌なら都会に行け。って言われてるのと同じですよ。
どうやっても代替品にならねぇ。でも、それが認識されてるか疑わしいので、みんなで文句言いませんか?

2016年2月14日日曜日

富山県唯一のミニシアターが、近所にシネコンできるからやめちゃうんだって。

アホみたいな単純計算で申し訳ないんだけど、年会費1万円でフォルツァで上映される映画が一年見放題って賛助会員を2,000人集めたら、フォルツァ総曲輪って存続できるの?
集まるお金が2,000万円。昨年の助成金が1,544万円。
年間かかっちゃうお金って、そんな単純なもんでもないか。
でも、富山市民が418,961人。富山県民で数えたら108万人。その中の2,000人を募るって、数字的には凄くイージーじゃないか?
単館系の映画見たい層が、人口の1%を激しく切るなんてこともないと思うわけだよ。
文化大事って建前で動かなきゃいけない新聞とかテレビ局なんかに、率先して結託して協力してもらえればいいだけな気がするよ。
とりあえず、中日新聞のWeb版から引用。
http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2016021102100010.html

 富山県内唯一のミニシアターとして市民や映画ファンに親しまれてきた富山市総曲輪のフォルツァ総曲輪が9月末で映画上映を休止する。6月に近くの再開発ビルでシネマ・コンプレックス(複合映画館)が開館するのを受け、市と運営する市出資の第三セクター会社「まちづくりとやま」が判断した。9年間にわたり館を支えたファンからは惜しむ声が上がりそうだ。(松岡等)

 フォルツァは、市中心部から映画館が次々に廃業した二〇〇七年二月、閉館後の映画館を活用してオープン。当初はまちなかで映画を見られる環境を維持しようと、市民有志らが運営する公設民営の施設としてスタートした。現在は市の補助金を受けて「まちづくりとやま」が運営している。昨年の補助金は千五百四十四万円。

2016年1月31日日曜日

虫からの電話

むかしむかしあるところに、一冊の本がありました。
本にはただずっと「?」と書いてありました。
そんな本の意味をリンゴを食べながら考えていると、電話がかかってきました。
虫からです。
虫は今、エジプトのピラミッドの頂上に居て、そこから謎の足跡が見えると言っています。電話で様子を聞いていても、なんのアイディアも浮かびません。秘密を解明するための鍵も鍵穴も皆目わからないので、とりあえず、虫のいるエジプトに行くことにしました。


2016年1月28日木曜日

TEDxHimi2016を終えて

情熱的で勇気の出るやつは、恐らくそのうちファウンダーが書くと思うので、忘れないうちに、とりあえず会場の裏方的な備忘録。
各地のTEDxから応援に駆けつけてくれた皆さんに感謝を。ありがとうございました。
特に、仕事をふらない前提だったのに、いきなり映像のオペ席に座らせてしまったTEDxKyotoの金谷さんには、タスクやら人員の最終的な管理を見ていた身として、穴があったら入りたい感満載でおります。ありがとうございました。

氷見でやる意義?

TEDxHimiは、日本海側初というだけでなく、日本の5万人規模の都市で行われた最初のTEDxらしく、準備開始当初から、こんな質問を受け続けました。
「なぜ氷見?」「氷見でやる意義は?」
お決まりだとは思います。
この質問に対しては、本当に嘘くさいところまで、どこまでも遡って最もらしいことは答えられるんですが、おそらく、この質問をする人が満足する答えが、私自身の口から出ることはありません。
氷見でやる理由もなにも、場を作り、そこに集い「Ideas worth spreading」をやれと定義されて、TEDからTEDxHimiのライセンスを受けているファウンダーが「Ideas worth spreading」やるから力貸してよと声を出しているから、それに力を貸してTEDxHimiを実行するだけのことで、それ以上の本質はありえないと考えています。
トークイベントは「Ideas worth spreading」のひとつの手段。紙を綺麗に切るのはハサミがいいのかカッターがいいのか、道具を選ぶ理由を聞かれても、適材適所でとか、手元にあるもんで切りなはれとか、カッター派ですとか、ハサミ派ですが握り鋏はちょっと……。とか、そうならざるを得ないのと同じです。
こういった戸惑いはあったものの、富山県内、氷見市内からの支援には非常に熱いものがありました。今後、いかに地元に受け入れられていくか、氷見市界隈はTEDxを開催している場所だということを、地元の皆さんに自慢してもらえるようになることも、ひとつの指標であると見ています。

初回を終えて

初回を終えて、全体のスケジュールが最低でも二週間、できれば一月半前倒しにできていれば、今見えている範囲でのクオリティの向上は実現できるのではないかと考えています。
今の時点で、やり足りないとか、もっとうまくやりたいと考えた関係者に対してはもう、このエントリーが「ありがとう。お疲れ様。次回はもっと前倒しでいこうぜ」と、これが最初の発声です。
ファウンダーも既に、次回のテーマのアイディアを思いついたらしく、そんな内容のコメントをFacebookで目撃しています。そんなわけで、よろしくね。

『トークイベントの会場の熱や圧力をどのように高めていくのか』スピーカーに対して集中せざるを得ない環境の作り方と演出の問題。
今回も、空間そのもの、開始から終了まで一貫した意図がありました。今後もそれは変わりません。
会場の制約、予算との兼ね合いはあるものの、こちらはその都度、様々なアイディアを投入できそうです。
カメラで撮影した場合にどう見えるかという問題もあります。
切り取られた絵についても、しっかりと見ていきたいと考えています。
次回からは、段取り合わせを最低でも二回以上は確保したいものです。

『参加者の会場での快適さや居心地の良さはどのように確保するか』機能的にはかなりしっかりこなせていたロビー周辺ですが、参加者に快適に楽しんでもらう、少し避難する場所としては、今回は少し手薄だったかもしれないと見ています。
会場の制約もありますが、これも今後の課題。

『ゴミの減量。そもそもゴミを出さない方法は無いのか』
参加者に提供するものの工夫も含めて、いろいろと困難は見えますが見えるものは隠れているものよりも解決は楽な筈。
全体が200人程度のトークイベントなら、完全にコントロール可能なのではないかと見ています。

私自身は、この三点についてのアプローチを中心に、今後もTEDxHimiのクオリティを向上させる努力を継続していきたいと考えています。
とにかく、私自身はそうでもないですが、スタッフの多くが半分は優しさでできていることで、悪く出た目もあるように感じています。なので、スケジュール前倒ししようぜ。
もう一点、とりあえず条件はどうあれ、なんとかするしかないという風に考えなければ、何も前に進まないということが、多くの場面で見られました。フォーマットもレシピもないなら作るしかないわけで、この模索の方法を共有することの難しさを改めて感じました。今回のTEDxHimiは、裏方としては、0から1を作る作業でもあったわけです。
当然、各地のTEDxのフォーマットをありがたく参考にし、利用させていただいたことは言うまでもありませんが、それを氷見で具体化するにはどうしたらいいのかという点での模索も多くありました。これはもう、一回やったので、ある意味クリアです。

なにはともあれ、スタートラインにはどうにか立てたわけで、早々に、次回の準備に入りたいと思います。