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2015年10月5日月曜日

秋ですよ。秋。夏が終わるというのは素晴らしいですよ。なんせ歩いても汗かかないし、猫が膝にきても気にならない。

Netfilixはお試しでおさらば。どうにかスーパーナチュラルのシーズン8は見終えた。
キルラキルと、あとなんだっけ。いくつか途中のものはあるけれど、なんやかんやで、Linuxで見られず、Macでも、FirefoxからだとMicrosoftSilverlightのインストールを求められたりと、細かな意見の相違がどうにも埋められなかったもので、これなら音楽の方にお金を出すわということになりました。
そんなわけで、Huluにがんばっていただきたいものですが、なんだかんだでAppleMusicの居心地が良くてかなわんです。
ひょっとして、動画配信なんてものは俺にとって全く不要なのではないかと、そんな気もしてきてますよ。娯楽とというか、暮らしの潤いとしては音楽があればいいんじゃないか?
LastFMが戻ってくる兆しも無いわけで、もうこれは致し方ないかしらと思い始めております。朝っぱらから、一昨年なんとなくスルーしたヴァネッサ・パラディのアルバムに行き当たりまして、あら。スルーして申し訳ないと、そんな気分。
Linux使ってる間も、傍でアンプにつないだMacから音が出ていればいいわけで、いや、Linux版のiTunesお願いします。

改めて読む

先日気晴らしに漫画でも拾うかと思って行った中古本屋で、ゲド戦記の1巻から4巻と外伝を一冊100円で拾いまして、子供の頃になんとなく読んだ記憶があるんですが、どうもピンとこなくて印象が薄かったものの、読み直そうにも微妙に記憶にあるのであんまりその気になれないまま、多くの月日が流れておりました。
そんなこんなでル・グイン自体が「いつかね〜」な扱いだったわけですが、この度めでたく読み始めまして、概ね面白く読んでおります。しかし案の定、記憶が微妙に邪魔ですね。なにがピンとこなかったかといえば、当時の自分にとってはグダグダと説教臭かったんだと思い出しました。そのせいで、ル・グイン自体も敬遠してたんですね。もう大人なんで、大丈夫です。
あんまり再読しない方なんですが、P・K・ディックとか、もう一回読んでおく方がいいのかという気分になっております。
先日からペルシダーシリーズ読みたいんですが、きちんと読んでいない空想冒険小説なんかを漁るか、なんとなくそんな気分ではあります。
こっち方面、面白いけど読んだ?読んでなかったらこの辺から手をつけてみなよとかあれば、お誘いください。
そういえば子供らに読み聞かせているホビットの冒険が、ついにゴクリとのなぞなぞのシーンを迎え、久しぶりに山場に差し掛かって食いつき過ぎて力つきて寝てしまうという現象を目撃。そういう読書体験がしたいものです。

2015年8月24日月曜日

濃いやら薄いやらわからん週末でしたが、なんですかね。なかなかきちんとは噛み合わないものです。

TEDxHimiで集まれる人間だけでなんとなく飲もうぜとか言いながら、相当楽しく飲んで飲み過ぎてしまい、土曜日をぐったりマインクラフトやらなにやらで潰し、更に日曜日まで似たような感じになってしまったわけですが、ワールドのどこを探しても牛がおらず、ひたすらどこかに恐らく居るであろう牛を目指すか、読書か読み聞かせをしているかという日々でした。
まだ困ったことがあってもググったりしていないので、いろいろ抜けていることはあるとして、草刈ったら出てくる種が麦になることを発見したのが一昨日。
牛に必要なのは麦や!というアドバイスで、麦を持ってふらふらしたら、牛があとからついてきたのが今日。牧場はじめました。牛が付いてくる様子を見ながら進もうと後ろ歩きをしていたら、背後でクリーパーが爆発して瀕死の重傷を負いはしたものの、なんとか死なずにやっております。
偶然ハサミを発見し、そういえば、棒をいくら組み合わせても柵にならないのでイライラしておりましたが、そういえば、スケール無茶苦茶やったなと思い直してみれば、さらりと柵になるなど、ググらずとも、なんとかやっていける感はありますな。

思索は続きますが、ちょっと書けないような酷いことも多く、また、前進していくことは前進していくこととして甚だしく、それなりにいい感じです。
そういえば、前年度末、つまり三月で終わるはず(あ、これ不味いか。略)

申し訳ないが俺には必要なかった

ところで、今、古本で入手したとある本の冒頭部分を読んでいるんだけれど、これを読み進めたものかどうしたものか迷っている。
アメリカ人の詩人が書いた生き方の再構築本で、結構長い間ベストセラーになったとか。困った。
この話題、これまでのフロイト先生とオカルトとシッダールタ、あとちょっとシェイクスピアが十分カバーしてくれているじゃないか。なんだよ。
なんで、生き方の本がベストセラーになるんすかね。今ぱっと自分の本棚を見渡しても、ちょっと見当たらないというか、悪くないのかもしれないけれど薄いものを手にとって困惑しております。

なにをしたものか……

と、ここでまた、ブロックでできた例の世界に行くといろいろ問題なので、なんか別の本を読むか、なんか書くか。さて、どうしたものかというところ。
そういえば、いろいろ考えあぐねて止まっていたセーフプロジェクトを再開しようと思うのです。

ネット上の何かという意味で、他のものとさしたる差異無しといえど、世界がセーフならいいなぁということでひとつ。

2015年7月27日月曜日

やっぱり、集まれって呼びかける次のアクションが必要ですよ。次は行動。

ふと思い出した2011年の夏の読書感想文っすな。もう45にもなるんで一貫してるとは言わんすね。性根なんで、いまさら変わらんのです。

http://nakazolog.blogspot.jp/2011/08/blog-post_24.html
何百冊のハウツー本を読んでいると自己紹介する人に、「で、何に準拠しているの?」と聞いて即答できるか、本当に聞いてみたい。ただ消費する行為で何処かに流れ着くことはあっても、明確に自分を変える力なんて無いでしょ。これだって、所詮は自分の中にもともとあったものが明確になっただけですよ。そう思えば、余計に自分が何に準拠しているのか、さらにどう変わるのかってのは、非常に重要なことですが、ここまでわかりやすいと、この本だって、哲学でもなんでもないハウツーです。昔の偉い人を並べて、どうだ!読め!書け!革命だ!とか、脅迫しているわけです。
なにはともあれ、読め。で、書けよ。おまえらも。どんな状態がやばいかはこの本に書いてあるし、この後も佐々木先生が優しく教えてくれてるかもしれないから、とりあえずいいんじゃね?と、そんな次第。

読んだらからには準拠できるか?準拠できてるかどうか怖くなるくらい読んだか?準拠してるか?マジで準拠してんのか?
学んだこと、知ったことを使えるってのはつまり、自分のものにするということで、自分のものにするってことは、準拠できてるかどうかってことだよ。同化ね。同化。いや、そもそも同化なんてできないから。

で、その上でなお、「考え」「言葉にし」「実行する」わけだけれど、できてるのか。全部、自分のことになってるかしら。
と、なんすかね、娯楽の多様化って、つまりガス抜き装置の多様化なんですね。
ここんとこ、そんなことばっかり考えてるんで、そろそろこれがネタになりそうな勢いです。

どうも疲れているというか、金曜の晩に酒飲んだのが足にきての土曜。そのまま日曜日の日光に負けた感じで疲れて……。この日光で疲れた感じって、土方のバイトの三日目ぐらいまでの体の感覚なんですけど、どうもよろしくないですね。
なんか、外での活動を考えます。

2015年7月17日金曜日

ソーシャルネットワークもいい加減落ち着いてきたというか、身の回りの環境になってきてます。

いきなり戦争になるわけはないので、とりあえず余裕のあるうちに近隣の政治家や政治家志望者ときちんと話しあえる環境を作らないと、皆が娑婆に黙らせられる可能性が増大しているので、そっちを危惧しているわけだ。
一応、戦争はそれなりに大事業。余程の四次元展開でもない限り、今どき藪から棒に始まるわけはないと信じている。
どちらにせよ、大事業を為すには万障繰り合わせる必要があって、繰り合わせる際に黙らしたり黙らせられたりが後々の揉めるもと。
少なくとも、何か限定された見解にこだわるのが迷妄のはじまりなわけで、今ギャースカ見えてくるもののほとんどが、いい感じじゃない。

選挙権を得て25年になるけれど、そんな意味では聞くことはあっても、自分の意見を言う様な関わり方はしてこなかった。
ここまできてしまっては、どちら側ということではなく、与党も野党も両方を育てる必要があるんじゃないだろうか。難しいか。
今更、福島某やワークシェアリング某の顔を見ても、連中が何をしていようが流石だなぁとはこれっぽっちも思えない。いわんや一時期与党だった党のお歴々をやだ。だが、こういう事態について、そこまで政治に関わりたくないよという有権者であっても社会を構成する以上は、「やだ、今ちょっとマズくね?」と思わなければならない事態ではないかと感じる。
Facebookなんかを見ていても、ある世代から上の一部の皆さんの自由からの逃走ぶりには目を覆うものがある。
口走っている個人の問題ということにしてもいいが、かつて観測された逃走の傾向が連想されるんだから、今の娑婆には、何か足りないものがある。
でも、こういうのに結びつく具体的でミイラ取りがミイラにならない行動ってなんだろうね。なんかやりながら考えていくしかない。

そういえば、Facebookのタイムラインから、自分がどちらのスタンスかも明らかにせず、賛成系の投稿にも反対系の投稿にも「いいね!」している奴を整理。
触るなら、どういうスタンスかを述べる。触らないなら触らない。それが大人の態度表明というものではないのか。
自分の意見と違うからって整理はしないけれど、いちいち理解不能の意図を推し量る義理はないし、それが見えてちょっと考えてしまったんだから仕方ない。こんなことにはリソースを使いたくない。またいつかね。

一日家から出ず。
休憩時の読書は「太平記」か「自己牢獄を超えて」

2015年7月7日火曜日

不味いなぁ。目だけ尖っていくとか今更恥ずかしい……。

ここしばらくの懸案だった火鉢を入手。睡蓮鉢。
というか、このごついのは睡蓮なのか?なにはともあれメダカも無事泳いでいるので、よしとしよう。

ここ暫く、手数のあげ方について考えている。その必要に迫られている。
いろいろ考えてみたが、自分の活動に絞るだけにして、人の養成も必要以上にはやらないでおくことにすると決める。
とりあえず、無駄を省くという楽な方向に走ってみる。
今の時間配分の中で一番無駄だったのは、何かを教える時間だ。これを、チームのクオリティの向上か、必要のある人に有料でということにする。そんなスタンスに体を慣らしていこう。

映画に駆られている件

と、そのくらい余裕が無い原因というか、映画作りたいんですけど、どなたかプロデューサー居ないもんでしょうか。困っております。
実績とか評判って意味では、なんせインディーだし、全うにビジネスになった記録は無いんですが、それでも不滅に近い普遍性を持つネタが昨年辺りから、またぞろ柴田剛との間に転がってまして、こいつに決着をつけてしまわなければ、どうにも残便感で夜も眠れないものであります。
『おそいひと』同様、すり減りにくい普遍性のあるネタな上に、「障害者」というわかりやすい判別機能も含まないので安心。
こんなことを書くと、ソッコーで今どきはクラウドファウンディングだとか言われるんですが、ここはひとつ、そうでない手法で、なんとかならんものかと、ずっとモノとして残って何度でも上映できる映画にはそこも重要でして、まぁ、このハナシは割愛でもいいや。
なかなか、インディーで映画を撮り続けられるサイクルに柴田を放り込むってのも難しい時代。なんとかならんもんだろうか。柴田本人も改めて呼吸整えているので、どうにかしたいところ。

それにしても、本当にいろいろ詰まっているので、順次消化していきたい。

読書

ちょっと前に買っていた『U理論』。つまみ食いをやめてとりあえず頭から読みなおしている。
帯の紹介にも味わい深い一冊とあるが、なんというかそんなに刺激的でもなく、優しいキャラメルの様な、だるいなおい。
だるいけれど、いきなり時間が過去から未来に向けて流れるって体感自体が錯覚とか、通じないことを言ってもしょうがないので、これはこれで良いキーワード集。きちんと読みます。
そういば、周囲の流れに負けて『稼ぐ町が地方を変える』も買っていた。これは確かに盛り上がる。走りだしているものの軌道が変わる力になりますように。

2015年6月23日火曜日

日記だ。日記書いてやる!

Web日記というものがあったことを思い出した。
とりあえず、何も考えずここに日記を書きなぐる方向で、ちょっと自分のペースを調整する。

ここ2日ほど、後輩の柴田剛とSkypeで話しをしていた。3月11日の震災で、少なくとも暴力的な祝祭が全てを包み込んで終わる様な物語りを終わらせて、果たして何があるのかということをずっと模索していた。祭りは始まりでしかない。
ひとつの答え、二人の共通認識は、昨年の12月に出ているが、そのプロットはそのまま放置されている。
昨日、今日で、その応用ともいえるコンセプトがひねり出せた。あとは剛任せというのが悔しいところだが、また紆余曲折するのであれば、その時にまた考えよう。
もったいないので、どうにか映画にしてしまって、沢山の中学生や、噂を聞いてドキドキしながらレンタルビデオ屋をさまよいブツを探す様な高校生に見せたい。見た瞬間はわからなくても、見さえすればいいというのは、『おそいひと』の時も同じ。再上映の噂を聞いて映画館に走れ。
剛の映画がけっこうきちんと映画の文法に則っていると口走ることに、誰も躊躇しなくてもよくなればいいだけじゃないのかとは思うが、仕事となると、そういうことは関係なくクリアしなくればならないところもあり、なかなか難しいのだろう。

午後、小矢部の「マリオのパン」に行こうと途中まで出るが、他の電話連絡などしているうちに中途半端な時間。母から、ちあきちゃんの不在の可能性を聞いていたので、電話すれど誰も応じず、行くのを中止する。
高岡の{仮}に寄って千葉に業務連絡。ddコマンドの完了に時間がかかりまくる件、何かWebで見かけたという話しを聞くが、帰宅して調べてもそれらしいものは見つからず、とあるところから預かってきた2テラのハードディスクのコピーが……。
いままでとは全く違う速度でエラー吐いているので、もう一晩放置してみる。

読書

講談社学術文庫『スッタニパータ』に手を付ける。高校の倫理の時間とかのタイミングで手を出していたら、いろいろ変わっていただろうか。
『仏教思想のセロポイント』と『アップデートする仏教』を経てみると、なんとも味わい深いというか、ブッダの揺るがなさが形容しがたく、そう感じている自分に、あらぬ本読んでしまった後の取り返しのつかなさを覚える。

2015年5月17日日曜日

かけっこの練習

かけっこで
1番になれる本
いろいろあって、運動会がかなり本気で本当に嫌いでしょうがないんですが、それは私だけの話し。私の子供には関係ないっすね。
先日、一緒に劇団やってる泰子先輩が、従兄がこんな本書いてるんすよとかいう話しをしていたので、『かけっこで1番になれる本』買ってみました。
で、先日残念ながらリレーの選手になれなかったと漏らしていた長女(小学校1年生)にちょっと走る練習してみようかと誘ってみたところ、マジでいきなり1秒タイムが縮んで、本人が大喜びしたので、もうちょっときちんとこの本の通りにやってみようかと思っているところです。
先にやっとけばリレーの選手に?それは無意味なたらればっすよ。

ところで、練習中娘に、「ちょっとお父ちゃんの言う通りにしてみてよ」と言ったところ、「お父ちゃんの言う通りじゃなくて、その本に書いてある通りでしょ」と突っ込まれて、ちと恥ずかしい思いをすると同時に、何かの本を読んで「この本一冊から、高額のセミナーのネタが何個とれるか……」的なことを書いてる人のことを思い出したものであります。
何を学び、身につけて実践するのかってことなんですが、私、この本の通りに走ってみて、完全に身につけてみるということなく、娘に「こんなコツがあるんだって、やってみようよ」と誘って、なんとなく教えながら娘のタイムを計測して、実際に速くなっていくのでびびっていたわけですけど、決してこれは「お父ちゃんの言う通り」じゃないわけで、本に書いてあることを伝えているだけです。
ブローカーのモラル。放つ言葉の主語については、しっかりと考えていかねばなりませんね。気をつけます。
ところで、走るフォームについて話しをしていて「でも、この表紙の絵の格好と違うやんか」と、またしても娘から指摘が入りまして、中経出版自体というか、なんやろ、もうちょっと気を使って本作ったらいいと思うんですけど、所詮はビジネス本の類い。読み捨てられる前提というかそういう扱いのものなの?と、これは苦笑い。

2011年8月24日水曜日

夏の読書感想文『切りとれ、その祈る手を』

(書いている途中で気覚きました。これ、なんとなく感じていたお題のニュアンスから、かなりズレてる気がしますが、引き続き「野戦と永遠」読むのでご容赦。)

Twitterでお世話になって、最近はGoogle+遊んでもらっている小津坊乙さんからのムチャ振りで、夏休みの課題図書よろしく佐々木中の『切りとれ、その祈る手を』という本をポチって読んだわけですが、普通は他の本もパラパラやりながらなんですけど、これはほぼ一気読みでした。思えば私、生まれて初めて株式会社の社員になってからこの10年、全くこういった思想系みたいなところをキャッチする情報のアンテナなんざ降ろしておりまして、佐々木中のことも知りませんでした。
読書にはとにかく刺激を求める方ですが、刺激的な読書というやつともとんとご無沙汰でした。
記憶に残る一気読みといえば、3年ほど前の『コレラの時代の愛』の後半150ページと、一昨年末から年が明けるまで、小説といえばスティーブン・ミルハウザーばっかりチマチマ読んでいたと、この程度です。あと他に、ここ5年以内に初めて名前を知った小説家で心に残ってるといえば、貰い物の時代小説で北原亞以子ですか。NHKでドラマもやってた『慶次郎縁側日記』は、多分あらかた読みました。
全く久々の思想書というか、いや、『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』が文庫本で読める時代ですよ。貧乏だった頃にうへぇとなって、図書館で眺めた本も色々文庫で出ているんですが、だからってあなた、こちとら仕事も忙しいし、やっぱり難しいもんは難しいわけで、気合い入れて一気読みとかできるわけないわけです。パラパラと拾い読みです。はい。

で、そんな風に一気読みした『切りとれ、その祈る手を』なんですが、これがしかしまぁ、全くいけすかないアジ満載のパンフレットなわけです。
アマゾンでポチってから本が手に入るまでのタイムラグで、佐々木中の顔とTwitterアカウントだけは把握していたんですが、なんだか今風な容貌をした愛されキャラの新鋭思想家が、編集者を前に語った五日分の夜話という体裁。
本になるまでの当然の作業として、喋ったことを改めて構成しなおしているんでしょうけれど、喋ったんじゃないの?喋りとして成立していない風な言葉運びにわざわざ直してどうするんだよ、語りの言葉として書き直している以上、こんなモノローグがあるかこの野郎!って箇所がポロポロと見られて、これなら喋ったことを書き起こしてもらった後に、きちんと普通の文章として書き切りなさいよ。というのが一番素直な感想です。
ただ、それがまるで駄目かというと、なんともいえない小気味良さでして、とにかく毎夜尻上がりに景気良くアジる。最終の五夜目ともなるともう、笑えるくらい痛快です。とにかく『真面目に読め!』『真面目に読んだからには、必ずややむを得なくなるから書け!真面目に書け!』『世界は終わらないし文学も終わらないんだよバカ!終末とか言ってキャッキャしてるとかバカだろ!バカ!おまんま代は別のところで稼げバカ!』とか、概ねそんなことが書いてある本です。
まともに書いたら喧嘩になりますよ。きっと。佐々木中の言ってる「文学が終わったとか言ってるくせに文書いておまんま食べてる連中」呼ばわりされてる人達は、真面目にやってる人ほど、カチンとくる筈です。
こちとら、これっぽっちも賢くないアート系崩れなんで、全くカチンとも来ないんですが、結局なんでしょう。これ、昔かぶれまくったオジサンにとっては、なんだか普通のアジ本ですわ。

読みながらいろいろ小難しいことも考えたんですが、詰まるところ、これ、田舎の高校生には素晴らしく良い本ですよ。俺も田舎の高校生だったんで、本当にそう思います。
思えば私、高校生ぐらいで文学にかぶれまして、その頃は別冊宝島で現代思想入門みたいなのも出ていて、平積みになってた様な時代ですよ。朝日出版社の復刻版の『リゾーム』が多分高校2年生の夏ぐらいです。学校の勉強できないアホな高校生だったわけですけど、なんか変な装丁の長細い本から、どうにもわけのわからない刺激だけを感じて、なんだよこれ!わかんねぇよ!フロイト読めばいいのかよ!どうしたらいいんだよ!フーコー?フーコーってのを読めばいいのか!?とか、そんな風に激しく迷走した挙げ句、ボルヘスにはまって、マルケスにやられて、気覚いたら演劇とかやってたという有様。
そんなこんなで、30歳になるまでベケットになるべく戯曲書いてたもんですから、ポストモダン以降だろうがなんだろうが、きっと悲劇はまだまだ世の中に存在できる。とか、普通に信じて淡々と迷走していたもんで、『切りとれ…』第三夜の終わりに終末論を否定するべくベケットが引き合いに出て来て、ホラ見たか。終わらねぇのよ。で、ハナシは続くぜ。ときた日には、ついつり込まれて「だよね。終わるわけないない」と、なんだかちょっと嬉しくなってしまいました。

申し訳ないくらい個人的な読書経験のおかげで『切りとれ…』の第一夜が、「俺ハカセ!俺は読みまくってるぜ!お前らもだろ?」って感じで読めてしまったもので、客席を温めるつもりの威嚇射撃なら、これで十分という手応え。この手の点呼に対しては「先生。一応、予習してありまーす」と小声で応えられるし、こちとら全く勝負の場所でもないんで、気分的には適当な目立たない席で鼻くそほじりながらです。そこにもってきて、読んだ事ある様な人が沢山出て来た挙げ句、文学とはという定義を散々喋ってから、膨らむからと寸止めして、ヴァージニア・ウルフですよ。先生、過激そうに見えて、やっぱり気を使ってるんですわ。初日の威嚇射撃ってのは、そうあってほしいものです。
後もうずっとそんな感じなんですが、こういうのも「うひょー!アカデミックだぜ!」って経験を通って、まだまだ現役で思想書を追いかける人とか、勉強している人には、「おめぇ何を今更その程度のもんをひけらかしてんだよ!」と、ストレートにうざがられるかもしれない。
でもこれ、煽動用のパンフなんで、真面目に読む本じゃない。喧嘩になりそうな表現をわざわざ柔らかくして、いちいちこれだけのお歴々を並べ立てるなんて、なんだか大げさだなぁと、全夜を通じて一種の娯楽の開始宣言として受け止める人もそれなりに居たのではないかと、そう信じたいものです。

あと、これまた本が届くタイムラグの間に見かけたんですが、情報云々でブツクサ言ってる人が居ました。情報なんて今も昔も受けなかったらそれで仕舞いですよ。インターネットだって、基本的に自分でそれがありそうな場所に近寄らなきゃ、要らない情報は入らないでしょ。自動的に脳に入ってくる電波じゃあるまいし、情報化の波とか、ひょっとしてパソコン立ち上げたら自動的にブラウザが立ち上がって、世界の情報を網羅したニュースサイトのトップページでも表示するのかと、そういったレベルの批判しか見受けなかったので、この点もスルーです。

ところで、革命ですってよ。革命。世界は終わらない。安心して読んで書いて革命せよ。って景気いいじゃないすか。
正直、世界を革命できなくてもいいんですよ。そんなことは、そういうところで勝負しておまんま食いたい奴に任せておけばいいんです。ただし、君はどうなんだい?って問いに対して、どこまでうざく即答できるかって、やっぱり大切なことです。
ビジネス書とか沢山あるじゃないですか。おんなじことに対するハウツー本が何冊もあって、それを何冊も読んで目からウロコ落としてる人が居るんですよ。刺激を受けるとか本当か?とか思うわけです。
正直なところ、物語に対しての不感症はただの教養の欠如で、感性とか素養の問題じゃないと私信じています。だから、ラノベから出ない奴も、恋愛映画が見られない奴も、基本的にはただ知的な好奇心に欠けている様にしか見えない。
本を読まないし、それと仕事が切り分けられている実務家のハナシは非常に具体的で明快です。つまらなくても。時間の分の深みはある。でも、絶えずビジネス書を必要としている割に複雑な物語を読むところまで到達していない奴らのハナシは、大雑把にはそうかもしれないけれど、そこってあまりにも普通に言われ過ぎているわけだし、そこからスタートするの?的なことを、さも重要そうに手繰り合わさせられたり、ただの逆張りだったり、無自覚に一人称が複数形だったり、『切りとれ…』でいうところの終末論めいた下品な切迫感に操られていたり、みつをだったりして、どうにもなりません。何のことかわからないかもしれませんが、教養のある大人の口走ることじゃないうえに、現実の時間の分の深みも無いわけです。

『切りとれ…』にはアジなりに良い事がポツポツ書いてありました、その中の一つに、ようやくこの本のおかげで自分でも言語化できた問いがありました。

読んだらからには準拠できるか?準拠できてるかどうか怖くなるくらい読んだか?準拠してるか?マジで準拠してんのか?

何百冊のハウツー本を読んでいると自己紹介する人に、「で、何に準拠しているの?」と聞いて即答できるか、本当に聞いてみたい。ただ消費する行為で何処かに流れ着くことはあっても、明確に自分を変える力なんて無いでしょ。
これだって、所詮は自分の中にもともとあったものが明確になっただけですよ。そう思えば、余計に自分が何に準拠しているのか、さらにどう変わるのかってのは、非常に重要なことですが、ここまでわかりやすいと、この本だって、哲学でもなんでもないハウツーです。昔の偉い人を並べて、どうだ!読め!書け!革命だ!とか、脅迫しているわけです。

なにはともあれ、読め。で、書けよ。おまえらも。どんな状態がやばいかはこの本に書いてあるし、この後も佐々木先生が優しく教えてくれてるかもしれないから、とりあえずいいんじゃね?と、そんな次第。

大人は手遅れかもしれないので、20歳ぐらいまでの若者にオススメです。こんなに優しい先生の本はオジサンが高校生の時には無かった、善し悪しはともかく、オジサンは若い衆が羨ましいです。

沢山人が出て来てよくわからない?そのわからない不安が消える程度に、出て来た奴の本を読んでから、再スタートすればいいんだよ。

2011年8月21日日曜日

本当は、もっとお気楽なブログを書く予定だった筈……。

本当はもっと高い頻度でお気楽なブログを書く予定だったのに、すっかり間があいてしまった。
8月が凄まじいスピードでお盆に突入し、今に至るまでにネタになりそうなことが無かったかといえば、地方再生ブランディングをネタにシンクタンクに潜り込んでいる男の胡乱なハナシが現在進行形過ぎて触るに触れられなかったり、DVDで見た『イップ・マン』の敵役が、1は日本軍、2はイギリス人で、その描かれ方については非常に興味深くはあったものの、お盆の時期といえば全国的に戦争の記憶を喚起する流れがある上に、「まんべくん騒ぎ」もあって、ネタにすることが憚られたりという有様であった。
他にといえば、ケーブルテレビで『サマーウォーズ』を偶然見かけたのだけれど、傑作と名高い割には全く楽しめず、途中で見るのをやめてしまった。これに関しては、なにがいけなかったのかを後で精査したいが、一応『映画館で見た映画じゃないと見た中に入れちゃダメ』という師の教えを遵守する方向で、少しおちついて切り口を探したいと思う。正直、アニメの文脈とか、全く押さえていないので、その辺ももう少しきちんと押さえてからというところ。

8月に入ってからは、ずっと佐々木健一の新書を平行でパラパラめくりながら、幾つかの本を行ったり来たりしている。前半はカルヴィーノの『アメリカ講義』こちらは朝日新聞社から出ていた『カルヴィーノの文学講義』に補遺を加えて岩波文庫から出たもの。補遺と解説目当てで買ったのに、思わず読み返している。
お盆辺りからは、これまた岩波の言語の科学シリーズ『談話と文脈』こちらは学生の頃バタバタと読んだ記憶しかなかったのと、最近どうも文脈のハナシばかりしているので、確認の意味で。
物語への欲求はSFマガジンと、八犬伝でどうにかしている。八犬伝、面白いんだけれど少しだけ脳みその別の部分が必要な様で、なかなか進まない。八犬伝が進まない問題は文庫というサイズにもある様に思う。

どうも読書が後ろ向きというか、5月頃からこれまでのネタの再確認めいた作業しかしていない。と、思っていたところ、G+で小津坊乙さんから、ちゃんと読み込んで感想をブログに書けとのお題をいただいたので『切りとれ、あの祈る手を……』をポチった。
あらら、この本の著者の佐々木中って同い年ぐらいと思っていたら、俺よりほんのり年下じゃないか。
ずっと気配はありましたが、本格的に自分より賢い年下の人間に色々と教わる年齢になって参りましたよ。