2015年7月17日金曜日

ソーシャルネットワークもいい加減落ち着いてきたというか、身の回りの環境になってきてます。

いきなり戦争になるわけはないので、とりあえず余裕のあるうちに近隣の政治家や政治家志望者ときちんと話しあえる環境を作らないと、皆が娑婆に黙らせられる可能性が増大しているので、そっちを危惧しているわけだ。
一応、戦争はそれなりに大事業。余程の四次元展開でもない限り、今どき藪から棒に始まるわけはないと信じている。
どちらにせよ、大事業を為すには万障繰り合わせる必要があって、繰り合わせる際に黙らしたり黙らせられたりが後々の揉めるもと。
少なくとも、何か限定された見解にこだわるのが迷妄のはじまりなわけで、今ギャースカ見えてくるもののほとんどが、いい感じじゃない。

選挙権を得て25年になるけれど、そんな意味では聞くことはあっても、自分の意見を言う様な関わり方はしてこなかった。
ここまできてしまっては、どちら側ということではなく、与党も野党も両方を育てる必要があるんじゃないだろうか。難しいか。
今更、福島某やワークシェアリング某の顔を見ても、連中が何をしていようが流石だなぁとはこれっぽっちも思えない。いわんや一時期与党だった党のお歴々をやだ。だが、こういう事態について、そこまで政治に関わりたくないよという有権者であっても社会を構成する以上は、「やだ、今ちょっとマズくね?」と思わなければならない事態ではないかと感じる。
Facebookなんかを見ていても、ある世代から上の一部の皆さんの自由からの逃走ぶりには目を覆うものがある。
口走っている個人の問題ということにしてもいいが、かつて観測された逃走の傾向が連想されるんだから、今の娑婆には、何か足りないものがある。
でも、こういうのに結びつく具体的でミイラ取りがミイラにならない行動ってなんだろうね。なんかやりながら考えていくしかない。

そういえば、Facebookのタイムラインから、自分がどちらのスタンスかも明らかにせず、賛成系の投稿にも反対系の投稿にも「いいね!」している奴を整理。
触るなら、どういうスタンスかを述べる。触らないなら触らない。それが大人の態度表明というものではないのか。
自分の意見と違うからって整理はしないけれど、いちいち理解不能の意図を推し量る義理はないし、それが見えてちょっと考えてしまったんだから仕方ない。こんなことにはリソースを使いたくない。またいつかね。

一日家から出ず。
休憩時の読書は「太平記」か「自己牢獄を超えて」

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