もしくは日本語か、言語そのものの不自由さについて考える。
ここで、こうではいけないと書いているこの一文に、同時に日常とはかくあるべしという意味も、俺を知らない人間も読み取れる様に、そんな書き方はできないものだろうか。
長い間、手書きのメモやらなにやらを叩き込む場所としてクロッキー帳を愛用しているけれど、そろそろノートのデジタル管理とか、アーカイブ化について前向きに考えていく時期な気がする。確実に摩滅しているものはあるから、蓄積に頼ろう。
昨夜寝る前に、ずっと気になっていたものについて、特にこれまでと同じ方法で気にすることはないと知っただけでも御の字。個人的な数日分の進展としては十分かもしれない。
久しぶりに道草Ingress。客先からまっすぐ帰宅せず。行った先に温泉があって、そのまま入浴。いいものですね。また行きます。しかしまぁ、啓蒙派の皆さんには、とてもオススメできない。
例の法案以降、ソーシャルネットワークでは長いものが大好きな人がぽろぽろと散見されていて、いちいち手を止めて考えてしまう対象になってしまうので、ちょいと迷惑。
長いものが大好きな人が人を小バカにできるチャンスを得て、SNSで実際小バカにしてはしゃいでいるのを見るのは、なんとも不愉快なものですね。
いや、単に俺がそういうのが好きな方ってだけか。面白いんだよ。面白いんです。でも、小粒なので結局は消費されて飽きられる娯楽みたいなもんなんですよ。でも人間よ。そう思うと嫌なもんなんですよ。
あ、何を長いと感じるかは、その人の属しているコロニーに準ずるんで、そこは間違えない様にお願いします。
例えば昨日見かけた人
Facebookのアイコンという通常の自分自身ですら誰かに仮託しなければならない様な人間。だからこそなのか、人を小バカにすることで自らの莫迦を晒す迂闊な行為は、大人としていかがなものだろう。具体的に彼の莫迦を何処に見たかといえば、自身のエントリーでもない、他人のコメント欄で、人に強く当てるにはあまりに浅いロジックで攻撃を行っているところ。
他人の尻馬に乗って、稚拙な猫騙しを出すなんて、それを切り抜けられて論破されたら、そこで使っている仮の人格が傷物になって困らないのかしら。仮託して身を守れると思ったら大間違いで、結局自身ではないので傷の修復は不能だと思うんだが、いかがなものだろう。
せっかく自分の身代わりをしてくれているペルソナ。雑なオモチャの扱い方していたら楽しく長く遊べないと思うんだが、どこまで迂闊な人なんだろうと、なんとなく公開されているエントリーを眺めて、自身を仮託できるものを多く持った浅くて広い幸福な人かと推察。
失敗したり、何か彼の心にとって重要な事件があれば、アイコン変わるんだろうなぁ。こういったことの同一性というのは、他者がどうかというのは無意味なんで、自身にしっかり同一性を保つ気があるかどうかが重要だと考えています。一貫させようという挙動さえ見えれば、なんでもいいんですよ。
彼が実生活を営むコロニーで、彼のああいった存在はどの様な形で受容されているのだろうか。
実名で公開の場で殴りあっている様な人なら普通に楽しく観察できるんだけれど、いかんせんSNSで友人の向こう側に居る程度の人だ。Facebookも折角なんだから、こういうのを隔離して観察する機能が欲しい。
ストとか暴動とかしない今の雰囲気というのは戦後徐々に作られてきていたわけで、そんな意味ではみんなグルですよね。
日本では、民主化運動のノウハウを誰も知らなかった。いつもならここで、中島敦の『名人伝』を出すのがテンプレートなんですけど、流石にゲロが出そう。なんの名人だよ。
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