必要なのは答え合わせじゃなくて、謎解きで、法則に準拠できているかどうかだと思うんだけど、どうも世の中違う感じがするのよね。別にいいか。
インターネットで政治の話し
インターネットで政治的な発言をすると、政治的なスタンスを勘ぐられるんですが、私、左右しっかりと全力を尽くして欲しいだけで、中途半端に左右に別れた皆さんの中にはどちらにも「戦争になって家族が死ぬ」とか言ってる連中がいまして、とりあえずなんだろう。言っているだけではなんにもならないのに、相手をバーカバーカ言っている様では、インターネットが貧乏人のためのガス抜き機械でしかないってのがそのまんまになるわけで、非常によろしくないと思うものであります。あと、よくわからない人に仮託するとか、マジでやめた方がいいっすね。自分の意見が絶対とかいう感覚が見え隠れするのも、大人としてどうかしらと思いながら見ています。そういう芸ならいいんだけどね。
TEDxHimiのアクティビティ
TEDxHimiにて、魚釣りから食うまでのプロセスを体験しようというイベントを実行。
このプロセス自体を俯瞰しつつ体験することに意味があるんだが、食ということで、食品衛生について考えなければならないということで、実は頭落として内臓を出す下処理ができなかった。
釣りドルみっちぃに来ていただいたりもして、そこそこ賑々しく進行した。30年ぶりぐらいに手が魚釣りの後の匂いになるが、これはこれで、悪くない。また何かの折に釣りに行こうと思う。
さて、当たり前のことだが、「考える」「言葉にする」「実行する」というプロセスをとにかく進めて、諸々をブラッシュアップしていく必要がある。しっかりした思想、文化の共有が伴うのであれば、EAチェーンでもかまわない。ただひたすら「実験(Experiment)」と「適用(Adapt)」を遂行していくというやつだ。
そもそも考えられなければなんにもならないが、言葉にして計画を共有する段が弱くてもなんにもならない、実行しなければ、考えも深まらず、考えが深まらなければ言葉も同様に浅いままだ。
難しいことは難しいままに理解し、実行に落とし込んでいけなければ、あらゆることがすべてどこか劣化していくか、ただの概念になってしまう。
単純化された象徴的なキーワードだけで出来ることなんてのは限られていて、そういうものに引っ張られて刺激の強い短絡回路を作ってしまっては、簡単な教条主義に陥ることになる。
そこに慣れてしまえば複雑で面倒なことに向かうことができなくなる可能性もある。
「なにごとも単純であるべし」という言葉を、果たして何に適用しどの様に使っていくか。その吟味を忘れてはならない。
そこに慣れてしまえば複雑で面倒なことに向かうことができなくなる可能性もある。
「なにごとも単純であるべし」という言葉を、果たして何に適用しどの様に使っていくか。その吟味を忘れてはならない。
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