2015年7月30日木曜日

斜め攻撃とか、そもそも角度の無い連中からしてみたら、それは誰ルール?って話しですよね。

ドキドキしながらとある役所へ。
諸々再確認しなければならないが、発見できないものがあっただけでなく、あらぬものも発見してしまい、余計にドキドキする。
いや、これは俺が発見した気になっているだけ。要確認。
確認、そしてまた確認。さながら未来世紀。

田舎で暮らす。土地に心奪われることの問題

久しぶりに用事があって、県立大の某研究室に立ち寄る。
田舎の皆さんが、土地に心奪われ自分たちのモビリティの極端な低さを人質に取られているという話し。確かにその通り。俺も自分の家の山をなんとかせねばならんと、土地に心が縛られている。
田舎で暮らす以上、人が少ない分、端から端まできちんとやらねばならない。政治家を育てることすら田舎で生きていくための責任で、これを何処かで放棄したら如実にアホな目に会う。
アホな目というのにもいろいろあるが、そんなことを喋っていた夜にもTwitterが騒がしくなっているのを目撃する。

http://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1507/29/news072.html

CCCモバイルは、スマホを通した地方創生を推進する子会社「ふるさとスマホ」を設立した。代表取締役社長には、前佐賀県武雄市長の樋渡啓祐氏が就任。カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)の企画力と、CCCグループが持つ「TONE(トーン)」や「Tポイント」の連携を軸に、地方創生につなげる事業展開を目指す。

私企業に市の図書館を売り払った元市長が、あからさまにその私企業の走狗となり、それを支持することがまかり通るとか、なかなか重篤な状況。
「なんなん、わしらこういうところから入門で沢山なが……。」とか言う感じで騙されて、慣れたら即隘路で絶望したり、いきなり外されるまでもなく、そもそも、ハシゴ自体が幻だったとかいうことが無い様に祈る。無いよりマシというのも良し悪し。
私財も公共財もグダグダにするディストピアの推進者と思えばロマンチックなのかといえば、ご本人の発言を世の中のウォッチャーも美味しく利用する様になっている「ひまじんうんこ」。
勉強怠ったり、喉元過ぎて熱さを忘れたのか、そもそも熱いと感じる感性が無いので、身を守るには何らかの手立てを講じなければならないのか。誰もが主語になり得る大きな問題だが、切りがない。

血パンダ役者募集してるよ

ところで、『Ostinato』が特殊過ぎたせいで、先日の稽古時の読み合わせで『夜は』の歯ごたえが微妙なことになった。立ち稽古に入れば模索に切りはないのだけれど、2チームできるくらいの役者の人数が居たら毎度稽古が面白くなるだろうし、2日で6ステぐらいできないかしらと思ってみたりしている。
役者やってみませんか?

2015年7月29日水曜日

インターネット床屋政談を全部記録して解析とか、そういう遊びを誰かしないかな。しないか。見たいなぁ……。

右寄りなアニキと話しをしていて、内容的には概ねこんな方向にいった。
  • シーレーンどうするつもりで考えてんだろね。
  • ASEANときちんと仲良くするってことなのかな。
  • 改めて、原油どうするのかな。
かつての八紘一宇の運用失敗の轍を踏まない八紘一宇をやったとして、それでも結局大回りで原油持ってこざるを得ない状況もあろうもの。
地理的な状況というのは、動き様がないわけで、そこも改めて状況整備したとして、最初にやるべきが軍備というか、そんな部分の単純化なんだろうかと思うと、どうも理解できない。
一体どの段階の、誰の尻拭いで今我々こんなことになっているんだろう。

で、デモに参加したら就職できないとか、あいつは朝鮮人だとか中国人だとかいう、そのレベルから仕込みなの?とか、しかも調査するのか!マッチポンプちゃうんけ!
みたいな有り様になっていて、ガス抜き初切相撲なんじゃないの?という気もしているわけですよ。
方々で、中国人があそこ買ったここ買ったって話しあるじゃないですか。そんなんもこんなんも含めて、なんか簡単な話しじゃないので、もっときちんと正面からやらんとあかんすよね。
なんやかんやで、立憲君主国の国民だってことを厳粛に受け止めて、明日はどっちなのかということについて、もっと大人らしく冷静に考えられないものだろうか。
でなきゃ、志位ちゃんが本気になって、イモータン・カズオ化するとかしてもらわないと、こっちとら根がロマンチストなんで、もうあとは是が非でも軍靴の音を幻聴しまくって亡命しかない。

2015年7月28日火曜日

菓子食う用の楊枝を作ったわけですけど、今年はわらび餅食いまくれってことか……。

午前中、金沢の山の中へ。

『里山の夏 涼を遊ぶ』
https://www.facebook.com/events/1021364201209487/

いい場所でした。街ばかりクローズアップされる金沢というか、石川県ってこういう景色を結構無造作に放り出してあって、身悶えしますね。本当にいい場所でした。や、どこの地方も一緒か?
トモル工房の田中孝明さんの新作やらなにやら。風がどっちに向くのか、個人的には孝明さんがやるとしたらどうなる?という興味本意で、見たい感じの風の様子があるんやけど、これはいつか俺の運がよければ拝めるかも。
実は、ここで同時に展示されていたガラスで、生まれて初めてガラスの作品も、ちょっと良いんじゃね?と思いました。工芸品には使い道って重要っすな。

書き起こすと比較的おだやかな一日の様に見えて、実は出力不全。
ゆっくり出力する時間が欲しいけれど、今週はそうもいかず。

2015年7月27日月曜日

やっぱり、集まれって呼びかける次のアクションが必要ですよ。次は行動。

ふと思い出した2011年の夏の読書感想文っすな。もう45にもなるんで一貫してるとは言わんすね。性根なんで、いまさら変わらんのです。

http://nakazolog.blogspot.jp/2011/08/blog-post_24.html
何百冊のハウツー本を読んでいると自己紹介する人に、「で、何に準拠しているの?」と聞いて即答できるか、本当に聞いてみたい。ただ消費する行為で何処かに流れ着くことはあっても、明確に自分を変える力なんて無いでしょ。これだって、所詮は自分の中にもともとあったものが明確になっただけですよ。そう思えば、余計に自分が何に準拠しているのか、さらにどう変わるのかってのは、非常に重要なことですが、ここまでわかりやすいと、この本だって、哲学でもなんでもないハウツーです。昔の偉い人を並べて、どうだ!読め!書け!革命だ!とか、脅迫しているわけです。
なにはともあれ、読め。で、書けよ。おまえらも。どんな状態がやばいかはこの本に書いてあるし、この後も佐々木先生が優しく教えてくれてるかもしれないから、とりあえずいいんじゃね?と、そんな次第。

読んだらからには準拠できるか?準拠できてるかどうか怖くなるくらい読んだか?準拠してるか?マジで準拠してんのか?
学んだこと、知ったことを使えるってのはつまり、自分のものにするということで、自分のものにするってことは、準拠できてるかどうかってことだよ。同化ね。同化。いや、そもそも同化なんてできないから。

で、その上でなお、「考え」「言葉にし」「実行する」わけだけれど、できてるのか。全部、自分のことになってるかしら。
と、なんすかね、娯楽の多様化って、つまりガス抜き装置の多様化なんですね。
ここんとこ、そんなことばっかり考えてるんで、そろそろこれがネタになりそうな勢いです。

どうも疲れているというか、金曜の晩に酒飲んだのが足にきての土曜。そのまま日曜日の日光に負けた感じで疲れて……。この日光で疲れた感じって、土方のバイトの三日目ぐらいまでの体の感覚なんですけど、どうもよろしくないですね。
なんか、外での活動を考えます。

2015年7月26日日曜日

そういえば、スピリチュアル素敵〜って皆さんが、なんで幽霊や占いに答え合わせを求めるのかということが最近すごく気になっています。

必要なのは答え合わせじゃなくて、謎解きで、法則に準拠できているかどうかだと思うんだけど、どうも世の中違う感じがするのよね。別にいいか。

インターネットで政治の話し

インターネットで政治的な発言をすると、政治的なスタンスを勘ぐられるんですが、私、左右しっかりと全力を尽くして欲しいだけで、中途半端に左右に別れた皆さんの中にはどちらにも「戦争になって家族が死ぬ」とか言ってる連中がいまして、とりあえずなんだろう。言っているだけではなんにもならないのに、相手をバーカバーカ言っている様では、インターネットが貧乏人のためのガス抜き機械でしかないってのがそのまんまになるわけで、非常によろしくないと思うものであります。
あと、よくわからない人に仮託するとか、マジでやめた方がいいっすね。自分の意見が絶対とかいう感覚が見え隠れするのも、大人としてどうかしらと思いながら見ています。そういう芸ならいいんだけどね。

TEDxHimiのアクティビティ

TEDxHimiにて、魚釣りから食うまでのプロセスを体験しようというイベントを実行。
このプロセス自体を俯瞰しつつ体験することに意味があるんだが、食ということで、食品衛生について考えなければならないということで、実は頭落として内臓を出す下処理ができなかった。
釣りドルみっちぃに来ていただいたりもして、そこそこ賑々しく進行した。30年ぶりぐらいに手が魚釣りの後の匂いになるが、これはこれで、悪くない。また何かの折に釣りに行こうと思う。

さて、当たり前のことだが、「考える」「言葉にする」「実行する」というプロセスをとにかく進めて、諸々をブラッシュアップしていく必要がある。しっかりした思想、文化の共有が伴うのであれば、EAチェーンでもかまわない。ただひたすら「実験(Experiment)」と「適用(Adapt)」を遂行していくというやつだ。
そもそも考えられなければなんにもならないが、言葉にして計画を共有する段が弱くてもなんにもならない、実行しなければ、考えも深まらず、考えが深まらなければ言葉も同様に浅いままだ。
難しいことは難しいままに理解し、実行に落とし込んでいけなければ、あらゆることがすべてどこか劣化していくか、ただの概念になってしまう。

単純化された象徴的なキーワードだけで出来ることなんてのは限られていて、そういうものに引っ張られて刺激の強い短絡回路を作ってしまっては、簡単な教条主義に陥ることになる。
そこに慣れてしまえば複雑で面倒なことに向かうことができなくなる可能性もある。
「なにごとも単純であるべし」という言葉を、果たして何に適用しどの様に使っていくか。その吟味を忘れてはならない。

2015年7月24日金曜日

妥当というか、田舎ってことで莫迦にされてる気もしなくもないアウトレットじゃないですか。自転車で来る高校生とか最強。

Facebookでちょっと遊ぶが、小津さんからTwitterでやれよと指摘される。
すいません。Twitterだと流石に面倒臭いっす。堕落しきっています。

小矢部方面に出るついでに、最近できたアウトレットモールに寄る。
氷見から小矢部に抜けるための最後の面倒な場所に、ややこしいものを作りやがる。
とはいえ、何かの折にまた行くやもしれず、まがりなりにもGODIVAがあるだけで、とりあえず満足。
雨の夕方ってことで人は少なかっただろうが、酔いやすい建物。これは俺のせい。
しかし、この程度の満足感で渋滞やむなしとはならん。小矢部に行くときに、もう少し手前で道の駅側に逃してもらえんものだろうか。

諸々終了後、最終的にはヤマシナ印刷にて飲酒。
目標設定というやつを、そもそも他人にしてもらわなければモチベーションすら自分でなんとかできない段階で、そもそも向いてないんじゃないかという話し。
それでなくても、できないものは絶望的にできなかったり、できない理由がわかってもうまくいかなかったりするもの。
梃子やらギアのイメージで噛み合う噛み合わないみたいな風に考えるのはもうやめよう。これもただの言い方だった。

2015年7月23日木曜日

A5のルーズリーフ使ってみることにします。無地の紙しか使えない体です。

血パンダのミーティング。次回公演は、11月28日、29日でやる方向。
『夜は』というのがありまして、実はこれ、結成の時に書いたんですが、ずっとやってないんですよ。
いかがなもんでしょう。キャストもスタッフも募集します。

専門学校の頃の同級生が大門にカレー店GALOをオープン。
元々、この場所にタージマハールが出店した時に店長をしていたものだが、金沢界隈を回って、四半世紀を経て同じ場所でタージマハールからの独立。
おお、なんだこりゃ。感慨深い。というか、歳取ったなぁ。
今はタージマハールのスタイルだけど、徐々に独自色を出していくとのこと。期待。

Amazonにて、とある書籍を入手。
日本のいわゆるスピリチュアルとか言っている人たちが拠り所にしているものって、一体なんなんだろうか。
幽霊に答え合わせを求め、世界の法則から遠ざかる的な本末転倒というか、結局は占いめいたものや似非道徳につながってなにがおさまるものか、と、ここまで書いたら、本当はあまり気になっていない自分に気づく。脳でなく、手が考えるシリーズ。

2015年7月22日水曜日

なんというか言葉だ。言葉ですよ。もっとこうなんですかね、すぱーっといきたい。

書くことがないというのは嘘で、日常とは、こうではいけないなぁと確認する数日。
もしくは日本語か、言語そのものの不自由さについて考える。
ここで、こうではいけないと書いているこの一文に、同時に日常とはかくあるべしという意味も、俺を知らない人間も読み取れる様に、そんな書き方はできないものだろうか。

長い間、手書きのメモやらなにやらを叩き込む場所としてクロッキー帳を愛用しているけれど、そろそろノートのデジタル管理とか、アーカイブ化について前向きに考えていく時期な気がする。確実に摩滅しているものはあるから、蓄積に頼ろう。

昨夜寝る前に、ずっと気になっていたものについて、特にこれまでと同じ方法で気にすることはないと知っただけでも御の字。個人的な数日分の進展としては十分かもしれない。

久しぶりに道草Ingress。客先からまっすぐ帰宅せず。行った先に温泉があって、そのまま入浴。いいものですね。また行きます。しかしまぁ、啓蒙派の皆さんには、とてもオススメできない。

例の法案以降、ソーシャルネットワークでは長いものが大好きな人がぽろぽろと散見されていて、いちいち手を止めて考えてしまう対象になってしまうので、ちょいと迷惑。
長いものが大好きな人が人を小バカにできるチャンスを得て、SNSで実際小バカにしてはしゃいでいるのを見るのは、なんとも不愉快なものですね。
いや、単に俺がそういうのが好きな方ってだけか。面白いんだよ。面白いんです。でも、小粒なので結局は消費されて飽きられる娯楽みたいなもんなんですよ。でも人間よ。そう思うと嫌なもんなんですよ。
あ、何を長いと感じるかは、その人の属しているコロニーに準ずるんで、そこは間違えない様にお願いします。

例えば昨日見かけた人

Facebookのアイコンという通常の自分自身ですら誰かに仮託しなければならない様な人間。だからこそなのか、人を小バカにすることで自らの莫迦を晒す迂闊な行為は、大人としていかがなものだろう。
具体的に彼の莫迦を何処に見たかといえば、自身のエントリーでもない、他人のコメント欄で、人に強く当てるにはあまりに浅いロジックで攻撃を行っているところ。
他人の尻馬に乗って、稚拙な猫騙しを出すなんて、それを切り抜けられて論破されたら、そこで使っている仮の人格が傷物になって困らないのかしら。仮託して身を守れると思ったら大間違いで、結局自身ではないので傷の修復は不能だと思うんだが、いかがなものだろう。
せっかく自分の身代わりをしてくれているペルソナ。雑なオモチャの扱い方していたら楽しく長く遊べないと思うんだが、どこまで迂闊な人なんだろうと、なんとなく公開されているエントリーを眺めて、自身を仮託できるものを多く持った浅くて広い幸福な人かと推察。
失敗したり、何か彼の心にとって重要な事件があれば、アイコン変わるんだろうなぁ。こういったことの同一性というのは、他者がどうかというのは無意味なんで、自身にしっかり同一性を保つ気があるかどうかが重要だと考えています。一貫させようという挙動さえ見えれば、なんでもいいんですよ。
彼が実生活を営むコロニーで、彼のああいった存在はどの様な形で受容されているのだろうか。
実名で公開の場で殴りあっている様な人なら普通に楽しく観察できるんだけれど、いかんせんSNSで友人の向こう側に居る程度の人だ。Facebookも折角なんだから、こういうのを隔離して観察する機能が欲しい。

ストとか暴動とかしない今の雰囲気というのは戦後徐々に作られてきていたわけで、そんな意味ではみんなグルですよね。
日本では、民主化運動のノウハウを誰も知らなかった。いつもならここで、中島敦の『名人伝』を出すのがテンプレートなんですけど、流石にゲロが出そう。なんの名人だよ。

2015年7月19日日曜日

三連休の低速モードで失礼します。

概ねWordpressのテンプレートを眺めていた。
なんでデザインとロジックもっと分離せんの?とか、ブツブツいいながら時間が過ぎていく、かなり薄い日々。
MTはperlでもうなにがなにやら面倒なことこのうえねぇし、Wordpressなんて昔から展開した瞬間に臓物ぶしゃーって感じで、ちょっと大きなサイト作ったら速攻重くなるしで、ずっとNucleusの方が好きでした。好きなんですよ。流行らないですね。
Nucleusってのがあって、そっち使いたいんすけどとか言うと「え、MTじゃない理由とか聞かれたら面倒じゃん。とりあえずメジャーどころ使おうよ」とか言われまくって10年ぐらい経つんじゃねぇの?なかなか難しいものですね。

長男の誕生日に伴い戦車はリモコン化。その流れで2台になった。電子工作に入り込む一歩前だが、その前にシャーシ製作の精度をもう少し向上させる必要がある。
せがまれていた妖怪ウォッチの方は、近々全バージョンのメダルが利用可能な新製品が出るとかでグダグダ。そもそもアニメーションも面白くないというか、子供っぽいダメなツボを攻めるばかりの単調さは変わらず、そろそろ飽きられて廃れてもいい頃なんじゃないかしらと思いながら見ている。

初めて脚本を書く高校生のプロットを見る。
さすがに何処で逃げを打ったかが手に取るようにわかるしダサい。見て取れた問題点は、プロットの供給元に確認して答え合わせもできたが、いくら初めてだからって、そこまで見たままというのはいかがなものだろう。
登場人物を先に設定するにしても、予め言い訳要員と見て取れる人間が居たり、起承転結やら伏線やら、どこかで聞いたような形式を意識するあまり着想が死んでいく過程をプロットの段階で目の当たりにする。
まだセリフにもなっていないのに、なんで好き好んで着想を殺していくのか、わけがわからないんだが、でもおそらく、この高校生にとりあえず最初の欲望のままに書き切ってから整合性考えたら?という指導する人とか居ないだろうし、手がかりも無いんだろうなぁ。
具体的な最初の一歩に対して、一般論が役に立たない例。
あ、しかし、ダサいのは読んでいるものがダサいんだと思う。文化的な刺激不足。

2015年7月17日金曜日

ソーシャルネットワークもいい加減落ち着いてきたというか、身の回りの環境になってきてます。

いきなり戦争になるわけはないので、とりあえず余裕のあるうちに近隣の政治家や政治家志望者ときちんと話しあえる環境を作らないと、皆が娑婆に黙らせられる可能性が増大しているので、そっちを危惧しているわけだ。
一応、戦争はそれなりに大事業。余程の四次元展開でもない限り、今どき藪から棒に始まるわけはないと信じている。
どちらにせよ、大事業を為すには万障繰り合わせる必要があって、繰り合わせる際に黙らしたり黙らせられたりが後々の揉めるもと。
少なくとも、何か限定された見解にこだわるのが迷妄のはじまりなわけで、今ギャースカ見えてくるもののほとんどが、いい感じじゃない。

選挙権を得て25年になるけれど、そんな意味では聞くことはあっても、自分の意見を言う様な関わり方はしてこなかった。
ここまできてしまっては、どちら側ということではなく、与党も野党も両方を育てる必要があるんじゃないだろうか。難しいか。
今更、福島某やワークシェアリング某の顔を見ても、連中が何をしていようが流石だなぁとはこれっぽっちも思えない。いわんや一時期与党だった党のお歴々をやだ。だが、こういう事態について、そこまで政治に関わりたくないよという有権者であっても社会を構成する以上は、「やだ、今ちょっとマズくね?」と思わなければならない事態ではないかと感じる。
Facebookなんかを見ていても、ある世代から上の一部の皆さんの自由からの逃走ぶりには目を覆うものがある。
口走っている個人の問題ということにしてもいいが、かつて観測された逃走の傾向が連想されるんだから、今の娑婆には、何か足りないものがある。
でも、こういうのに結びつく具体的でミイラ取りがミイラにならない行動ってなんだろうね。なんかやりながら考えていくしかない。

そういえば、Facebookのタイムラインから、自分がどちらのスタンスかも明らかにせず、賛成系の投稿にも反対系の投稿にも「いいね!」している奴を整理。
触るなら、どういうスタンスかを述べる。触らないなら触らない。それが大人の態度表明というものではないのか。
自分の意見と違うからって整理はしないけれど、いちいち理解不能の意図を推し量る義理はないし、それが見えてちょっと考えてしまったんだから仕方ない。こんなことにはリソースを使いたくない。またいつかね。

一日家から出ず。
休憩時の読書は「太平記」か「自己牢獄を超えて」

2015年7月16日木曜日

日常はいいなぁ。田舎者がやるべきことについて改めて考えていきたい。

富山市内での夜の打ち合わせの予定が変わってしまったものの、呉羽駅前の野口屋へ。
血パンダ公演の時の差し入れにあった焼き菓子などの山分け。ありがたし。仕事中のおやつにします。などと言いつつ、どちらかといえば野口屋のどら焼きの購入が目当て。野口屋のどら焼きは、とてもしっかりしていて、コンビニに売っている様なふわふわのものでは満足できなくなる。
ふわふわが求められているという話しもあるかもしれないが、実はそれ自体、ただのコストダウンのための業界あげての仕掛けなのではというお噂。自分が求めている自分の欲望だと思っていること自体、ただ踊らされているだけなのかもしれない。
その後、吸い込まれる様に小杉のめん八へ。チャーシュー麺とライス。これでチャーシュー飯の呪いは、多分解けた。欲望ってなんだ。

専門学校の同級生から情報。これまた専門学校の同級生がカレー店を出した模様。行かねば。

英語学習開始

老人でも若者でもない無産階級のオッサンとして、国外逃亡の準備を始めるというのが、今最もロマンチックな選択だと見た。

5年後にオリンピックを控えて、このままなら国民一丸とならなければダメという雰囲気が蔓延するだろうか。少なくともテレビは煽る筈。
競技場の件はグダグダだが、これに視線をまとめて、まとまったものをそのまま、アスリート様の超人的な努力を讃え、応援しなければ日本国民ではないという方向に持っていくだけのことだ。
一度まとまる方向で定着すれば、あとは使い様。スポーツネタだし、子どもたちの洗脳も自然に可能だし、そのまま民主主義のままでも言いたいことを言えなくするのは比較的楽な作業だ。
問題は、煮殺される段取りになっているのは学校教育のレベルで訓化された若者なんで、長いものが好きな皆さんや、反対反対軍靴の音が聞こえるとだけ小声で念仏唱えている皆さんは比較的安全なこと。なかなか難しい。

流れを振り返るとナルホドとはなるものの、節目は勝手にやってくる。日本人は公の場で政治と宗教の話しをしないし、大学では学生の自治は壊滅しているし、子供を子供のまま社会に出す仕組みはとっくに完成していて、とりあえず釜だけはガンガンゆだっていく。
命が軽い物語には美しいものが多いが、命が軽い社会が美しいわけがないのは歴史を見れば明らかだけれど、学校ではそういう教え方しないし、よくよく思い出してみると、左教師ほど美しいものが好きな傾向があった様にも思う。これはまぁ人によって違うか。
戦争というのは常に、国家のことを我が事として考えている明敏な皆さんが、これしかないと選択していく結果そうなるわけで、今後、実際どうなるかはともかく、そろそろ第二次大戦後から次の何かの戦前になっていくのは避けられない状況の様に俺には見える。

さようなら日本。そうはならない様にしたいけれど、申し訳ないが、こちとらただの文句言いだし文句言うこと以外で当事者になる年齢でもない。
そんなわけで、言いたいことも言えない日本になるなら、居られなくなるぐらいの勢いとクオリティを目指すのが全うな取捨選択というものだと信じる。がんばろう。

とりあえず、英語の語彙チェックはした。自分の状況は概ね把握したので、粛々と勉強します。
なんだあいつ、危なくなったら逃げるのかよって話しですが、俺程度が爪弾きにされたり逃げなきゃいけなくなるまで社会が仕上がるなんてこと、普通なら無いと信じている。あくまでこれは、念の為というか、自分のモチベーションのため。

語彙チェックはここでやったよ。みんなもどうだい?
http://testyourvocab.com/

2015年7月15日水曜日

一晩寝かしてもあんまり変わらないので、そのまま。カルシウム足りないのかな。

とりあえず何手目かにはマズローを持ち出す人というか、自己啓発の効果でミイラかミイラ取りなのかが曖昧になった連中とのコミュニケーションの不可能性を思い出す日だった。
細かいことは割愛。
いや、ありがちなテンプレを見ると、つい茶化したくなるというか、そういうテンプレートをこちらも持っているわけで、普通に香ばしい一日。

なんだろう。単純なテンプレに則って決まり文句を口走って生きている大人というのは、自分がアホだと言われる可能性について目を瞑る能力に長けているというか、こちとら日々自らの無能を指摘されて、「おまえという奴は相変わらず精進が足りない」と言われないかと怯えて努力をしているんで、もうちょっとドキドキしながら生きてみないかとお誘いしたいものだ。このスリル、やめられないんだぜ。

田舎には何もないというテンプレ

朝っぱらから「富山県には目玉になる観光地がないからアウトレットモール云々」という文字列をFacebookで見かけ、それでは例えば立山室堂に日々押しかけているあれは地獄谷から転び出た亡者の影をカウントしているものかと度肝を抜かれたものだが、要は「田舎にはなにもない」というのの延長だろう。とはいえ、アホというか節穴の目で幻を見て暮らしている幸せ者には変わりない。
こういう幸せ者が「誰が政治家になっても何も変わらない」というクチとかぶっているのだろうと推測するのだが、なにせ、地元民から情報を求めて「富山行きたいけど、なんかある?」と問われても、かなり自信満々で「何もない。金沢へ行け」と答えるので、邪魔なことこの上ない。
帝都界隈に寄生しているネズミ帝国の近所にでも暮らせば、もっと幸せになれるんじゃないかと思うのだよ。くだらない不満を漏らすなら、幸福になる努力を本気でしていただきたい。

捕鯨

で、昼にはこれ。
http://www.sankei.com/entertainments/news/150712/ent1507120013-n1.html

国際的な非難が集まる日本の捕鯨やイルカ漁に関して、ニューヨーク在住の実力派映画監督、佐々木芽生さんが賛成派、反対派の意見を取り入れたバランスのとれたドキュメンタリー作品を発表しようと製作に取り組んでいる。過激団体シー・シェパードのポール・ワトソン容疑者がこの動きをキャッチし、フェイスブックの個人サイトに、彼女は「クジラ、イルカへの虐殺」を正当化しようとする「プロパガンダ映画監督だ」と中傷する声明を発表した。

そもそも、命を食べずに生きられる者だけが他人の食ってるものに文句言ったり石投げたらいいんじゃないだろうか。

クジラやらイルカとなるといつも見かけるのが、イルカに関して言えば「かわいい」「癒やされる」とか、「日本人はクジラ食べるほど飢えてないわけだし……」やら「クジラなんて美味くもないものを……」というやつだけれど、こちとらクジラが穫れればありがたくいただくこともある土地の生まれ。美味しいんだよ。普通に美味しいんだ。
漁師の皆さんには、クジラは入ればボーナス的なもの。イルカはいかに傷めつけてとにかく追い払い、漁獲を守らなければならない厄介な相手だ。
日本人が反捕鯨に同調する文脈で捕鯨に目を向けるのは何故か。
かわいいやら癒やされるという手合は、現物を見たらかわいそうで二、三日牛豚鶏魚も食えないだろうからどうでもいいけれど、「飢えてない」「不味い」という反応に納得し、その意見を我が物として自らも言い出す連中が居るのは一体どういうわけだろう。
本当にそんなことを実感してのことか、当人に聞きたくなるが、ひょっとしたらネットで作り上げられた攻撃用のテンプレートのコピペで本人なんてのは居ないのではないかとも思う。そんな意味では上等のテンプレートだ。

世の中は実感にあふれている。マトンってのはそんなに美味いものだろうか。羊には愛らしいイメージないだろうか。なんで食うんだ。
イノシシの脂の獣臭さ、ハズレを引いた時のあの取り返しのつかない不味さ。大丈夫か?
不浄な豚を美味いと言って食っている我々を、イスラム教徒はあからさまに軽蔑するだろうか。流石に牛食ったらヒンズー教徒に悪くないか。虫食う地方あるだろ。
なにが言いたいかといえば、いちいち他所様の食い物とか、そこにまつわる諸々を莫迦にするんじゃないってことですよ。
食うために囲って繁殖させて殺してるわけで、人間に置き換えてみろ。ナチスでもやってない残虐行為だぞ。牛豚は畜だからいいってもんでもないだろ。命ですよ。
弱った捕虜によかれっと思ってゴボウ食わせたら木の根食わされたとか言われて捕虜虐待で戦犯扱いされたとかいう有名な話もあるわけで、これ、実話かつくり話か確認はしていないけど、なんせ反捕鯨の連中ってのは結局欧米のキリスト(イヤマテ、以下自粛)

2015年7月14日火曜日

なんだろうかこのマッドマックスの再見引力……。本当にじわじわきている。

椅子やら鍵やらを返却して、公演関係は全て終了。
職人は頭だけでなく、手なり体なりを動かしていなければならないというお言葉をいただき、やっている間に年老いてくたばる年齢に足を踏みいれている取り返しのつかなさと向き合っている。
書きます。

『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を見てから一週間が経過した。
映画は何かの事情でもない限り、上映中に複数回映画館に行くということは無いのに、じわじわともう一度見たくなってきている。
どうしても構成を見てしまうし、大学でそういう訓練を勝手に受けてしまった自覚もあるため、本当に何度見ようがそれなりに時間でも経って居ない限り、再見で新たな発見というのを経験したことがない。それでも、もう一度見たい。なんでだ。
イムモータン・ジョーの一部かそうでないかということ。
ニュークスが堕落して得たもの。そして、イムモータン・ジョーのウォーボーイとしての転生という重要なアイデンティティを失って為したこと。

まずいな。もう一回行くのか俺。

TEDxHimi準備

夜、TEDxHimiキュレーションチームのSkypeミーティング。諸々ゆっくりと固まっていく。
ところで、経済がキーワードになると、富山県のご先輩がたはどうしても経済効率に固執せざるを得ないのか?
面白い考察が得られそうなお題な気もするが「ごもっともです、効率で良いのでスポンサーお願いします」というわけにもいかないので、TED実行への理解を求めて、結局は県外にも出なければならない予感がある。
文脈を行き来できないことの背景にはそれはそれで、重みもあろうもの。しかし、ちょっと悔しい話しではある。

2015年7月13日月曜日

血パンダの公演『Ostinato』も無事終了で、日記再開であります。

このところ、日記書くどころじゃなかったものの、血パンダの公演も乗り切って、とりあえず書かねばということで……。
こういうのは、そのまま埋もれさせておくのでもいいんだろうけれど、まあ、一興ってことで、今回の上演作品『Ostinato』の前口上に加筆修正してアップ。
初日、6月11日の朝書いたものです。

前口上加筆修正

昨夜、ポルトガル人の写真家、ジョゼ・ペドロ・コルテスが富山県に滞在して撮影した写真の写真集が完成するからデータを送るとか言ってきまして、とりあえずpdfで見てくれ、感想が欲しいよとのことで、いそいそとダウンロードしました。 
ジョゼと最初に会った時に『現代において、悲劇は関係性の中にしか存在できなくなっている』というハナシをポロッとしたときに「なんだよ、わかってんじゃん!」的なことになりまして、こんなことが赤ん坊とか野蛮人の様なカタコトでも通じるもの不思議な気分がしたのですが、そんなジョゼから送られてきた今回の写真集のタイトルが、 
 "One's own Arena" 

ときまして、くっそ誰の?なにするんや?と、富山で見たものの写真集に付けるタイトルとしては、あまりに象徴的なんじゃないのかと思いながらデータを開きますと、写真に入り込んだ人物の視線、それを撮影するジョゼの視点にすっかりやられてしまいました。 
ジョゼの他の写真集もなかなかいい感じで、その場面に至る移動や行き当たった感触がとても刺激的なものでしたが、これはまさに、富山県で実際にジョゼがいきあったものが写っているうえに、その時間感覚が概ね推察できるわけで、これがまた非常に感慨深く、俺は一体何の夢を見させられているのかと、息を殺して見てしまいました。
なるほど、作品製作に対して共通する視点や思想ってものがあると、こんな意味ではあんまり言葉要らないものだなと感じております。 
だからって、俺が撮影する写真がジョゼと似通うかといえばそれは違うし、ジョゼも日本語で戯曲は書かないわけで、そこもまたこうやって出力することの面白いところ。ジョゼも待っているだろうから、全力で感想を返します。 
しかしまぁ、感想自体は大量に書けるけれど、英語にできないや。なかなか細部までは伝えようが無いですが、頑張って箇条書きで感じたことを伝えようかと、大量の言葉が心を渦巻いております。 
ほらほら、英語できないと損でしょ?とかいうのは、こういうタイミングなんでしょうが、これに関してはそうも思わないです。なんでかってのはまた、別の機会に。 
ああ、これも現代の悲劇が発生していく地点ですね。


仕込みの間、近所だってんで、めん八高岡店を連食してしまいましたが、どうもチャーシューに取り憑かれてしまった様です。大盛りチャーシュー飯とか食べたいっす。

二年ぶりの血パンダの公演だったわけですが、考えていることを行動に移して、どうやってクオリティを上げていくか、磨いていくかってのはやっぱり楽しいことだと、いまさら再確認したものであります。
ずっと稽古はしていたわけですが、お客さんに見せないと何かをクリアしたことにならんもんですね、やっぱり。
何をしたら何処がゴールだったり区切りになるのか、入力と出力の適切な関係とは何か、最近は学習ごっこばっかりで、手段が目的化している人たちも多く見られるので、その辺自分でも気をつけながら速度も精度もあげていきたいものです。

あ、ジョゼがpdf見ろってんで、書きそびれた日記があった(w。
書きかけのまま、ここに引用しておきます。

劇場になる空き店舗に搬入などをしたり現場で稽古してみたりで、まぁ、なにがなんだかわからなくなっております。何食か食った飯のうちの2食はチキンラーメンだったわけですが、なんというか、非常時にはこういう飯がいいものですね。
うちでとれたズッキーニとキュウリの浅漬けを安いキムチの中に放り込んでおいたやつも、なんとなく食べごろで飯がうまいです。 
ところで、血パンダにはちょっとした元手をせしめるチャンスがありまして、それ以来、なんとなくその予算で公演を回しております。過剰に自腹切ってないわけですね。
その分、もうちょっとなんかないもんかなぁと思う瞬間もあるわけですが、とりあえずはいい感じで公演にはお金かけずにやってきております。
こういうことをしているとすぐに、夢をどうのこうのとか言われるんですが、なんせまぁこういうものを苦労して作れば、なんだか報われることがあるということを知ったからやっているだけのことでしt

そういえば、血パンダは役者やらスタッフやら募集してますよ。スタッフはある程度経験あると、主に俺が助かりますが、役者はとりあえず演劇やったことない人の方が、いろいろ悩まなくて済む傾向にあります。
変に演劇の経験があると、演技に対する先入観みたいなものを手放すのは、なかなか難しい様で、と、そんなこと言って脅してどうする(w。
なにはともあれ、団員募集しています。

2015年7月8日水曜日

ものは言いようで、空き店舗利用の文化行為だった。しまった。

血パンダの公演『Ostinato』が迫っているわけですけれど、思えば特設劇場シアター血パンダは、高岡大和前の一等地にある空き店舗ですよ。
高岡市民を通じて、高岡市役所とかになんかお願いしてお金せびり取れたり、取れる方法模索できたんじゃないのかと思ったら、残念至極です。くっそ。こういうのに上手に気がついて行政からチューチューするには、コーチかファシリテーターの勉強でもしたらいいのか?もしくはまちづくりに食い込めばいいのか。カフェ開業か。
アートを保護しろ!責任者出てこーい!とか、まぁ、こちとら爽快な演劇とか夢を実現させたいとかいう活動ではないんで、うんこみたいな冗談はさておいて、いや、さておくとしても折角の田舎なんで、そのうち自分たちのアトリエぐらいは、なんとかしたいものです。
風通さんといかんし、電気代と水道代を自分で払ってくれたら好きにしていいよ。とかいう危篤な家主さんが居られたら、お知らせください。
あれ?そのままなんか小屋として使える様にチマチマ平台とか箱馬作っていけば……。いいなぁ。大家さん特権として、そこで行われる催しは顔パスでいけるってのはいかがでしょう。
ご連絡、お待ちしております。

胡乱な話が勃発したので逃避……。

朝からきな臭かったので、それを避けるために『マッドマックス』に避難。とはいえ、文字通り避けているだけでただの逃避でしかなくて、結局は時間取られてしまう。
あ、見たので『マッドマックス』については喋れる様になったよ。
本当に胡乱で、いろんな意味でここに書けない話というのはあるもので、しかも、本来は俺の問題じゃないんだけれど、避けて通るわけにもいかない。
無視していてもいいけど、関係ある話しになった瞬間からとてもややこしいことになるので、最初から関係しておかざるをえない。
なんじゃこりゃ。まるで政治ですね。本当に、徹頭徹尾どこかで勝手にやってくれるだけなら、ただの香ばしい話しなんだがなぁ……。

2015年7月7日火曜日

不味いなぁ。目だけ尖っていくとか今更恥ずかしい……。

ここしばらくの懸案だった火鉢を入手。睡蓮鉢。
というか、このごついのは睡蓮なのか?なにはともあれメダカも無事泳いでいるので、よしとしよう。

ここ暫く、手数のあげ方について考えている。その必要に迫られている。
いろいろ考えてみたが、自分の活動に絞るだけにして、人の養成も必要以上にはやらないでおくことにすると決める。
とりあえず、無駄を省くという楽な方向に走ってみる。
今の時間配分の中で一番無駄だったのは、何かを教える時間だ。これを、チームのクオリティの向上か、必要のある人に有料でということにする。そんなスタンスに体を慣らしていこう。

映画に駆られている件

と、そのくらい余裕が無い原因というか、映画作りたいんですけど、どなたかプロデューサー居ないもんでしょうか。困っております。
実績とか評判って意味では、なんせインディーだし、全うにビジネスになった記録は無いんですが、それでも不滅に近い普遍性を持つネタが昨年辺りから、またぞろ柴田剛との間に転がってまして、こいつに決着をつけてしまわなければ、どうにも残便感で夜も眠れないものであります。
『おそいひと』同様、すり減りにくい普遍性のあるネタな上に、「障害者」というわかりやすい判別機能も含まないので安心。
こんなことを書くと、ソッコーで今どきはクラウドファウンディングだとか言われるんですが、ここはひとつ、そうでない手法で、なんとかならんものかと、ずっとモノとして残って何度でも上映できる映画にはそこも重要でして、まぁ、このハナシは割愛でもいいや。
なかなか、インディーで映画を撮り続けられるサイクルに柴田を放り込むってのも難しい時代。なんとかならんもんだろうか。柴田本人も改めて呼吸整えているので、どうにかしたいところ。

それにしても、本当にいろいろ詰まっているので、順次消化していきたい。

読書

ちょっと前に買っていた『U理論』。つまみ食いをやめてとりあえず頭から読みなおしている。
帯の紹介にも味わい深い一冊とあるが、なんというかそんなに刺激的でもなく、優しいキャラメルの様な、だるいなおい。
だるいけれど、いきなり時間が過去から未来に向けて流れるって体感自体が錯覚とか、通じないことを言ってもしょうがないので、これはこれで良いキーワード集。きちんと読みます。
そういば、周囲の流れに負けて『稼ぐ町が地方を変える』も買っていた。これは確かに盛り上がる。走りだしているものの軌道が変わる力になりますように。

2015年7月6日月曜日

甲府まで強行軍で体がガタガタっす。

甲府まで車で行って戻ってしていたら、帰宅しても使い物にならず。
流石に体がオッサンなため、二日分のまとめ。

土曜、甲府桜座にて行われる「第7回悶★カーニバル『霊感ヤマカン第六感』友川カズキを迎えて」
http://atemzeit.fem.jp/gt/
のために、甲府入り。

道中、多少Ingressの実績を稼ぎつつ、甲府中心部が緑に沈んでいたものの、着の身着のままで、弾不足。現地調達で、なんとなくできる範囲できる時間で稼がせていただいた。
どうせなら、もう少し遊ぶ準備をしてからでも良かったかと思いつつ、何名かエージェントと推定される人の背中を確認。みっちり市街戦しに来てもいいなという甲府でした。
また行くことがあれば、予め弾持って、Ingressする時間の余裕を持って行きます。

悶★カーニバルを主催する友人、日向がとにかく、友川カズキに蹂躙されるのか、何が起こるのかということで、見に行かざるを得なかったわけだけれど、結果的に良いものを見させてもらった。
これに関しては長くなるので割愛。友川カズキの言を要約するなら「ずっとサビで気が遠くなる、悪魔のようなキチガイバンド。もう山梨には来ない。ほうとう嫌い」と、そのくらい素晴らしかったわけだ。
終盤、日向がハードコアのビートを叩き始めたところから、ごりっとはめてくるのかと思えばそこもしっかりすかしてくる辺り、何を追いかけるのかということについて、バンド各人の個々に追うものが個であり一となって、そのまま乗せていただいた。良い経験でした。

ところで、会場になっている桜座は10周年とのこと。1階にあって搬入搬出もしやすそうで、ロビーでそのまま打ち上げもできる。
何か表現しなければいけない人間というのはどんなことをしようが勝手にやるのだけれど、そんな人間が、何かの間違いで刺激を受け、研鑽しあうきっかけになりそうな場所というのは、なかなか得難い。あると知っていても行かないことと、無いことには、雲泥の差がある。

なんにしても、次回から車で行くときは、もっとちんたら移動します。

2015年7月4日土曜日

久々に、書けないことだらけの日

日記晒しておきながら書けないことだらけってのはどういうことだというハナシなんですが、書けないものは書けない。
いろいろなことはあったし、考えもしたけれど、これは書くことじゃないやって日ですな。秘密保持の身体感覚ですな。

他人の情報は整理できますが、自分のは整理できないというか、説明する相手によって説明の内容が違うというのはよろしくない。自分が何者か、なにができるかについて、もっと明快に言葉になるようにしていこうと決意した日でした。
ホームページ屋は不正確なのものの、一番楽な説明だけど、デザイナーなんだと言われると違うよと答えざるを得ないので、やっぱり迷路の入り口。精進します。

精進といえば、ここしばらくの仏教ショックで、ちょっと座りに行かなければならない気がしているというか、座ったらどうなるのか、体感してみたい。
しかしそれは、マリネッティの未来派宣言にやられた頃の自分が感じていたこととは全く違うわけで、こういう流転からの脱出も含むとすると、それは

それは良し悪しの、と書こうとして、そういう二極ではないところかとなる。
とりあえず。

2015年7月3日金曜日

不思議なもので、一気読みできてしまう新書というのはなんだか残念な気分になる。

書店にて『荒木飛呂彦の漫画術』という新書を目撃。思わず購入してしまったものだが、とりあえず丁寧に良くまとまってはいるものの、この感覚が理解できなかったり、ある程度の経験的な蓄積が無かったりすると、例示自体が理解できずに混乱する部分もあるのかもしれないと感じる。
どんな感覚を身につけ磨いていくかということになるのだけれど、単純に経験してみるだけではにわかには理解できないことというのもあり、それを言葉説明するのは、なにかと難しい。
説明できない部分は感覚として身に付けるしかないというところに、もう少し踏み込めなかったものかと、執筆構成にアドバイスをした人が理解できなかったり踏み込めなかった部分の記録とかがあれば、そっちを読んでみたい。
そういえば、一応内容が加速していくなかで危険な名言があった。
褒められて伸びるのは子供だけで、むしろミスや失敗から次の作品へのヒントを貰い、書き続けられるのだと思います。
現場では伝わらない系なんだけど、ここに至らなければ、何事も長続きできない気がする。
ここに至らなくてもいいってことで、使い捨て前提で諸々端折ると、飲食店の洗脳朝礼みたいなものに行き着くものと見る。

夕方、シェフと打ち合わせで出てきたネタを、井波の彫刻師の人に聞いてみる。
突然の胡乱な話しからも、実行する時の問題点をしっかりと割り出してくれる。
些細なことだが、やってみなくてはわからないと片付けることも、文字通り思考停止。見習わなくてはならない。

なにをどんな言葉で言い表すか。
厳密さを欠いて問題ないことと、とにかくしっかりと把握していくための言葉を磨かなければならないことはある。
縁の吟味は難しいが、とりあえず縁だと感じたとしても、与えず受け取らずをしなければならない相手というか、そういう関係も少なからず存在しているものと思う。
全てが縁となり、例えば悪縁、良縁の二極で片付けられるものかといえば、それも大雑把な話し。
価値観の違いで人は殺しあってしまうものだが、だからこそしっかりと考えなければならないし、どこまで突き詰めても、結果殺し合いというのではダメ。
とはいえ、そんなもんでしょ?とりあえず経験。というのが、どんなことになっても、身になる体験で、しっかり次につながるのか。その辺りを忘れてはならない。
というか、次につながるって何?という感覚の養成を、大人になるまでにやらなきゃいかんってことだな。

2015年7月2日木曜日

教室ビジネスの暗部というか、なんだろ。決してプロ論ではない。

来週10日、11日と公演の近い血パンダの稽古上がりで全く着地点なく、あまりに散漫だったたので一旦寝てまとめなおす。

二日ほど連続して「自分が正しい」という主張と対面する。どうにかして自分のロジックを挟むのではなく、なんでそれが正しくないと判断されたのかを考えれば、普通にできることはありそうなものだが、「正しくない」状態では地に足がつかず、そんな状態では何もできない気がするということなんだろうか。本当はその辺が知りたくはあるが、これはやむを得ない。誰が話しても同じ言葉やテンプレートに則った思考はゴミ箱に。

丸パクで独自流派宣言って、武道だと消されるレベル?

夕方、ブログの添削やら何やらの指導をしているパステルアートの先生から連絡。
協会規定のカリキュラムを半分しかクリアしていない生徒から、Facebookで親子パステルアート教室のイベントへの招待が来たとのこと。
協会資格は国家資格というわけではなし、命に関わったり免許がないから罰されるという類のものではないが、その、もう私にもできそうだからやってみようという感覚の正体はなんだろうかと、なかなか重いテーマをいただく。

俺にしても、ブログ添削やらWeb利用法の指導も特に何かの資格を背景にやっているわけではない。
ただ、伝えなければならない価値や、自分のやりたいことをどうやって相手に伝えるかと考えた時に、しっかりとした蓄積がWeb上にあれば、ひっかかってしまった人がむさぼり読むしかないもの、文字通りの網を用意する精度の向上を基本に指導をしている。
情報の整理や作っていく過程で、他人の切り分けというのはかなり必要で、ビジネス必勝本の次のレベルの地味な現場作業だ。真面目な網目づくりには、ビジネス本のテンプレートに収まらない部分も多く、常に進行形の作業になるので、できない思考回路の人には全く向いていない場合もある。
と、ここまで書いたら、わかる人にはそういう着眼点でやるのか、パクっておれもやろう。という風になるかもしれないけれど、そこで違うのは、訓練と周辺知識と場数の差という職人的な技の部分になる。

さて、パステルアートに話しを戻すと、件のまだ訓練途中の生徒の方がやっているのは、一人でお手本を見て描くというカリキュラムのもの。
親子パステルアート教室というのは、俺がブログの添削指導している先生が、自分で模索して始めていることで、実際には描いたり教えたりの過程の中で行き着いたものだ。
訓練も場数も足りないのに、何故、自分にも教室ができると思ってしまったのかといえば、やったことないけど、なんだか出来そうな気がしたから。というところに尽きるだろう。辛うじて上面はなぞれるし、親子パステル教室で、どの様なことが試みられているのかは、俺が指導しているWeb上の記事を読めば、方向性や輪郭は掴める筈。
しかし残念ながら、せめて安定した技術か、ある程度の経験が無ければ、上面から読み取れる親子への効果も、実際にはあまり発揮できず、ただ描いてみたで終わり、他人の好奇心を消費して換金するだけのものに終わるだろう。
パステルアートへの適切なイントロダクションにすらならない可能性が高い。

まとめると、Facebookのイベントで招待かける時に、ライターにブログ教室とか、必勝本的なテンプレートなぞるセミナー受けたけど、なんだかしっくり来ない人たちの面倒を見ている人間に必勝セミナーとかの招待するのは気をつけなきゃいかんってことなんだけど、それはつまり、ブローカーとしてもイントロデュースする人としても質が低いので、結果的に、君がひっぱってくるセミナー屋さんの評価にも関わるから気をつけたまえということでもある。
今回は、本人がやらかしたので、彼女が習い事をするために近寄る先生方にも注意喚起か?
これ、蛇足なうえにミスリード誘うな。いいか。そのつもりで足しました。

血パンダ

血パンダの土曜日の前座をやってもらう璃璃さんが稽古の見学にきてくれる。
声が良かったので、とにかくお願いしてしまったものだが、団員からは「オッサン、そういう女子の騙し方はどうよ」というありがたい反応をいただく。
歌声を披露してもらい、一同納得がいった様子ではあるものの、「うわ、好きそうな声この野郎」と、概ね「いいの拾ったので褒めて褒めて!」とアピールする犬の気分は満喫できた。
璃璃さん、ストレートに半泣きな、いい声がぶつかってきて非常にいいものです。富山駅付近や環水公園界隈で歌っているらしいので見かけたら、ぜひ足を止めて耳を傾けていただきたい。
音楽良かったけど、オマケの演劇が……。という評判を阻止せざるをえなくなり、これまでにない危機感を抱いた血パンダ公演『Ostinato』は10日、11日、高岡大和前の特設劇場で実行!
「いい歳して、これをやるんかよ」という、ひょっとしたら演劇やってた人誰しもが、一瞬挑戦しかけて、あんまりいいもんじゃないかも……。って理由でやめたことを、そのままワーイとやり切ってしまいました。
「仲君、俺も同じこと考えた、でも、これはやっちゃダメだよ」と言いに来るチャンス!
ああ、普段なら戯曲公開するけと、『Ostinato』は無理なんで、公演に来なかったらなんにもわからないです。

2015年7月1日水曜日

Facebookで狭まる田舎の社会

地元氷見を拠点に食育ボランティアをしている母のグループはどうも災難続きで、恒例となっていた市内の幼稚園、保育園の年長さんに対する魚さばき体験は市からの予算が削られて、全員に実施していたものが、半分の人数にしか実施できなくなったりしています。
なんやかんやでそれでもマメに活動はしているんですけど、昨日、夕食の折にプリプリ怒りながらなにを言いだすかと思えば、来月計画していた食育イベントで、氷見市の施設を借りることにして申し込みをしていたものが、その場所で詳細未定の大学生のイベントをやることになり、予定通り施設が借りれなくなったらしいんですわ。

既に孫を持つ歳のオバさまがたの活動ですよ。特段法人化しようってもんでも、ガンガンあちこちから活動資金を捻出してこようってものでもないので、こういう動きひとつひとつが、なかなかの運営努力の末に成立しているんだということはさておき、夕飯食いながらぶつくさ言う母親の姿がなんともいえなかったので、Facebookにそのことを書いたんですわ。
書き込みしてからプライバシー設定がなんかの弾みで「公開」のままになっていたものを、デフォルトにしている「友達」に戻すか考えたんですが、「またハゲが、わけのわからない文句言ってる」程度の影響しかないだろうってことで、放置しておりました。

結果的には42人が「いいね!」して、その日のうちにコメントも付いたんですが、今日の夕方に母から、「あんた昨日私がブツブツ言うてたこと、Facebookに書いたんけ。誰見とるかわからんから消しといて」と言われたわけですよ。
すげぇぞソーシャルネットワーク!
母はパソコン使えませんし、携帯もガラケーです。で、俺の友人で母と直接つながりのある様な人間が、母に何か言うタイミングは無いし、あったら俺にも言うと思うので、「いいね!」をした人の向こう側に居る人から、オフラインで母に書き込みのことが伝わったことになるわけですよ。

【俺】→【友人】→【友人の友人】→(オフライン)【母】

ということですね。Facebook凄いやないか。
俄然、やる気が出るというかですね、やればできるということを実感したわけですが、問題はそこじゃないんすよ。
当然、アホな話しを聞けばアホだなぁと言うのをやめる気はないんですけど、どっちかといえばそもそも、このエントリーの力点は後半約140文字。引用するならこちらですよ。

トトボチを利用したトト夏カレーというのを見る度に、憤慨しながら飯を食う母を思い出す可能性を孕む、プルースト感の強いエピソードをわざわざありがとうございます。おお、母が孕むとしたら、生まれるのは弟か妹かどちらだ。
そんなこんなで、夕飯が何処に入ったやらわからなかった現場からは以上です。

この渾身の「またハゲがわけのわからないことを……」パラグラフが、全くなんの役にもたっていなかったことの方を嘆きたいわけです。修行足りんかった!
最近、プルースト使いすぎたか、しかもトト夏カレーってあんた、紅茶にもマドレーヌにもひっかからんやんけとか、「俺」が思い出す可能性を孕むのに、「母が孕む」と運んだのが無理筋過ぎたか、でも、そこは45歳からのエディプス・コンプレックス割引とかあって然るべきなんじゃないのかと、悶絶したものであります。
結果的に、母からの「消して」というありがちな反応どころか、Facebookで友達関係にもなっていない、子どもたちの食育よりも詳細未定の大学生のイベント(母からの伝聞)を優先した、氷見市の施設の方から謝罪メッセージまでいただいてしまうという、意図しないどころか、そこ俺になのかということも少し含めて、本来あってはならない事態に至っており、なんというかまぁ、人間なにごとも精進を怠ってはならない。私もまだまだです。
生きていかなければ、生きていかなければねぇと、プルーストがダメならチェーホフを思い出す、そんな一日でした。