文化を殺して金勘定だけを植え付けるから、ただ生きることから恋愛に至るまで、ありもしない利子の計算が始まり、人の関係はどんどん単純になっていく。
単純な関係しか知らない人間は考えることをせず、簡単に孤独になり、簡単に臆病になり、計算できる欲にだけ忠実になる。その結果、子供は全く計算不能なため、子供を作るという選択は消え、人は絶えていく。
シネコンができるから「街なかに映画をなくしてはいけない」ことが目的だったフォルツァ総曲輪が役割を終えて休館するというニュースに触れて、シネコンで上映される映画と、単館系の映画の違いもわからないという、マーケティングセンスを問う以前の、文化を認識する能力のあまりの低さに度肝を抜かれました。
9年間の映画館運営の果てにこの認識なので、問題は個人の資質ではなく、集団の、もっと致命的な部分にあるのだと考えています。
そんな中で、一般的な認識の枠を超えた場を作りたいというゴールドカレー富山豊田店のオーナー保坂さんから声をかけていただき、今回の公演が決まりました。
フランス料理店が舞台の『夜は』をカレー店で上演できる巡り合わせ。
劇場は最初からあるのではなく、演劇があればそこが劇場になるのだということを体験していただき、場とは何か、枠とは何かを考えてみていただくのもいいかなぁと、そんな風に考えています。
2016年2月28日日曜日
2016年2月18日木曜日
箱の運営するってことは、作る側としては終わる気がする。そっちの方が嫌だわ。
映画館兼劇場って感じの文化の中心地の件。
思えばカレーフェスタやTEDxHimiも、ずっとこんな感じがスタートで具体化してやってきてるわけで、今回もそんなノリから始まりでいいじゃないかということだ。
本当に実現できるのかも含めて、ずっと継続して考え続けるし、何年かかってもいい。持ったまま時間経って、腐ってダメになるならその程度のものだったってことだ。
本当は、明敏な運営者が現れてくれれば、そっちの方が俺は自分のことができるので嬉しい。
興味があれば知恵と力を貸しておくれ!あ、金でもいいよ。
映画館兼劇場って感じの文化センターの件。これ実は、都会に出た若者が地元に戻ってくるためにも、結構重要な施設。
劇場がない。映画館もない。ギャラリーもない。公のものは全部埋まってて、現場は優秀かもしれないけど、窓口の奴はちょっとググって裏をとる気も無いのが通常のクオリティだから、何処のコロニーにも属してないみんなには受け皿が無い。皆無。
先に大家さんを発見するよりも、金の準備できてから大家さんにおねがいする方が良さそうだ。ネタの説得力としての金ね。大家さんが持ってるのは不動産だから、向こうはそうそう動けないけど、こっちは身軽。だからせめて、金の分だけでも重くなっておきたい。
クラウドファウンディングは、実際に運営を始められたら、その時には挑戦してみたいネタがあるので、立ち上げはとにかく泥臭いお金集めだ。
【最初の行動?お題ふたつ】
1.お金って、こんな場合どこから引っ張るもの?
自慢じゃないが、パソコンがあればなんとか仕事になるというレートの低さで、ちんたらちんたらやってるので、ちゃんとしたお金の集め方がわからない!
金主を探さなきゃいけないんだが、こんなね、ほぼ手ぶらでネタしかない場合、そもそもどうやって探すものかもわからないので、俺知ってる!って人は教えて。
能書きならある。プレゼン資料作る。えーっと……。事業計画も?まあ、そこら辺は任せろ。
2.みんなでゆるふわひきよせ!
みんなでロト買ってほしい。で、一等当たった人がいたら、当選金額の中から1億+αだけ俺にちょうだい。これ、多分、何気ない遊びで大勢でやると効く気がする。運命の束。束になってかかれば、なんとかなる気がするから不思議!
【おまけ】
フォルツァ総曲輪が今からみんなでギャーギャー言って存続するならそれはそれ、しなかったら、富山市で「文化」とか口走る役所絡みの人間と会うことがあったら、赤ちゃん言葉で優しく話ししてあげる。漢字やカタカナで喋るのもやめる。
これは、覚えている限り飽きるまでやるつもりなんだけど、みんなもどう?
思えばカレーフェスタやTEDxHimiも、ずっとこんな感じがスタートで具体化してやってきてるわけで、今回もそんなノリから始まりでいいじゃないかということだ。
本当に実現できるのかも含めて、ずっと継続して考え続けるし、何年かかってもいい。持ったまま時間経って、腐ってダメになるならその程度のものだったってことだ。
本当は、明敏な運営者が現れてくれれば、そっちの方が俺は自分のことができるので嬉しい。
興味があれば知恵と力を貸しておくれ!あ、金でもいいよ。
映画館兼劇場って感じの文化センターの件。これ実は、都会に出た若者が地元に戻ってくるためにも、結構重要な施設。
劇場がない。映画館もない。ギャラリーもない。公のものは全部埋まってて、現場は優秀かもしれないけど、窓口の奴はちょっとググって裏をとる気も無いのが通常のクオリティだから、何処のコロニーにも属してないみんなには受け皿が無い。皆無。
先に大家さんを発見するよりも、金の準備できてから大家さんにおねがいする方が良さそうだ。ネタの説得力としての金ね。大家さんが持ってるのは不動産だから、向こうはそうそう動けないけど、こっちは身軽。だからせめて、金の分だけでも重くなっておきたい。
クラウドファウンディングは、実際に運営を始められたら、その時には挑戦してみたいネタがあるので、立ち上げはとにかく泥臭いお金集めだ。
【最初の行動?お題ふたつ】
1.お金って、こんな場合どこから引っ張るもの?
自慢じゃないが、パソコンがあればなんとか仕事になるというレートの低さで、ちんたらちんたらやってるので、ちゃんとしたお金の集め方がわからない!
金主を探さなきゃいけないんだが、こんなね、ほぼ手ぶらでネタしかない場合、そもそもどうやって探すものかもわからないので、俺知ってる!って人は教えて。
能書きならある。プレゼン資料作る。えーっと……。事業計画も?まあ、そこら辺は任せろ。
2.みんなでゆるふわひきよせ!
みんなでロト買ってほしい。で、一等当たった人がいたら、当選金額の中から1億+αだけ俺にちょうだい。これ、多分、何気ない遊びで大勢でやると効く気がする。運命の束。束になってかかれば、なんとかなる気がするから不思議!
【おまけ】
フォルツァ総曲輪が今からみんなでギャーギャー言って存続するならそれはそれ、しなかったら、富山市で「文化」とか口走る役所絡みの人間と会うことがあったら、赤ちゃん言葉で優しく話ししてあげる。漢字やカタカナで喋るのもやめる。
これは、覚えている限り飽きるまでやるつもりなんだけど、みんなもどう?
2016年2月17日水曜日
いや、本当に文化との接点ってそんなに軽いもんじゃないって。無いこととか消 えることに慣れすぎ。
再開発しました。シネコンできるから3セクのミニシアターやめるね。というアナウンスの中に、「ミニシアターが担ってた単館系の映画の上映はシネコンで継続すっから」が無いってことは、シネコンでやる映画は、イオンやらファボーレのシネコンでやる映画と一緒かもしれないってことだし、フォルツァ総曲輪のホールの方を使ってる人たちも、そのまま解散でいいの?
なんとなくネット上を探してるんだけど、文句言ってる人をほとんんど見かけない。
Facebookの検索機能の弱さが恨めしいけど、本当にギャースカ言ってる人間が少なくて、そっちにも違和感感じる。というか、なんで文句言わないんだろ。
文化との接点を殺す、センスのかけらもない判断ですよ。9年もやっておきながら、思春期が大人の仲間になるだけの十分な年月を経たというのに、蓋開けてみたらフォルツァ総曲輪って場所から全くなんにも学んでなかったって雰囲気ですよ。
コンテンツの多様さとか、映画館の維持がとかいう決まり文句を持ち出す前に、シネコンとミニシアターの客層の違いが頭の片隅にあったのかすら疑わしいわけですよ。そこに集まっていた人やら客の顔が見えてないんだ。
富山市の3セクですから、富山市マターですよとかって言うんだったら、氷見市の魚々座みたいに、地元民と地元じゃない人間で料金傾斜かけるぐらいして、地元じゃない奴らはイレギュラー。でも、入り口まで来てるんだし、仕方ないから入場させてやるよ。って、そんなことしてないじゃないか。ってことは、金払えば皆等しい客だよね。やんごとなき納税者様には、市の広報かなんかで、ちょっとぐらい上映される映画の情報をあげてたの?
ギャーギャー言わないと、ほらね。一部の愛好家以外は、誰も文句言わないじゃんってなるよ。
ハゲが文句言ってるじゃん「いいね!」するよ。じゃないんだよ。
俺は、場を殺される側なので、完全に一部の愛好家よりも悪い、実際はあんまり関係ない利害関係者。
ハナクソにもならないノイズ。「なんか絡みたくて言ってるんじゃない?」って片付けてもオッケーなカテゴリーに入ってるんすよ。
今までも場所無いねって思いながら演劇やってたけど、自力でなんとかなるわってのも正直なところ。氷見駅前の工事が終わって、氷見キネマが再開したら、単館系のいいやつが回ってくるし、フォルツァ行くよりも近い。
それとこれとは別だ。別だよ。あの場所で、一回でもなんかしたやつ、一本でも映画た奴は、それが自分の血肉になってない。まるで無駄だったってんなら適当でいい。でも、そうでないなら、文句言うべきだ。血肉になったんだろ?おまえ、身を切られたぜ。
でないと、同じ様ななめた真似する奴が、近所で出てくる。平気だぜ。何人居ようが「市民」とは別扱いの「一部の愛好家」ってやりゃいいだけだもの。
文化、みんなの地元にあるでしょ。それだけで満足しとけよ。獅子舞とか曳山とか最高じゃん。映画とか芸術は、なんか適当にチャンネル用意しとくよ。業者も居るし、他にも代わりあるからいいでしょ。って、これはもう、マンガが無いなら絵本を読めばいいよ。嫌なら都会に行け。って言われてるのと同じですよ。
どうやっても代替品にならねぇ。でも、それが認識されてるか疑わしいので、みんなで文句言いませんか?
なんとなくネット上を探してるんだけど、文句言ってる人をほとんんど見かけない。
Facebookの検索機能の弱さが恨めしいけど、本当にギャースカ言ってる人間が少なくて、そっちにも違和感感じる。というか、なんで文句言わないんだろ。
文化との接点を殺す、センスのかけらもない判断ですよ。9年もやっておきながら、思春期が大人の仲間になるだけの十分な年月を経たというのに、蓋開けてみたらフォルツァ総曲輪って場所から全くなんにも学んでなかったって雰囲気ですよ。
コンテンツの多様さとか、映画館の維持がとかいう決まり文句を持ち出す前に、シネコンとミニシアターの客層の違いが頭の片隅にあったのかすら疑わしいわけですよ。そこに集まっていた人やら客の顔が見えてないんだ。
富山市の3セクですから、富山市マターですよとかって言うんだったら、氷見市の魚々座みたいに、地元民と地元じゃない人間で料金傾斜かけるぐらいして、地元じゃない奴らはイレギュラー。でも、入り口まで来てるんだし、仕方ないから入場させてやるよ。って、そんなことしてないじゃないか。ってことは、金払えば皆等しい客だよね。やんごとなき納税者様には、市の広報かなんかで、ちょっとぐらい上映される映画の情報をあげてたの?
ギャーギャー言わないと、ほらね。一部の愛好家以外は、誰も文句言わないじゃんってなるよ。
ハゲが文句言ってるじゃん「いいね!」するよ。じゃないんだよ。
俺は、場を殺される側なので、完全に一部の愛好家よりも悪い、実際はあんまり関係ない利害関係者。
ハナクソにもならないノイズ。「なんか絡みたくて言ってるんじゃない?」って片付けてもオッケーなカテゴリーに入ってるんすよ。
今までも場所無いねって思いながら演劇やってたけど、自力でなんとかなるわってのも正直なところ。氷見駅前の工事が終わって、氷見キネマが再開したら、単館系のいいやつが回ってくるし、フォルツァ行くよりも近い。
それとこれとは別だ。別だよ。あの場所で、一回でもなんかしたやつ、一本でも映画た奴は、それが自分の血肉になってない。まるで無駄だったってんなら適当でいい。でも、そうでないなら、文句言うべきだ。血肉になったんだろ?おまえ、身を切られたぜ。
でないと、同じ様ななめた真似する奴が、近所で出てくる。平気だぜ。何人居ようが「市民」とは別扱いの「一部の愛好家」ってやりゃいいだけだもの。
文化、みんなの地元にあるでしょ。それだけで満足しとけよ。獅子舞とか曳山とか最高じゃん。映画とか芸術は、なんか適当にチャンネル用意しとくよ。業者も居るし、他にも代わりあるからいいでしょ。って、これはもう、マンガが無いなら絵本を読めばいいよ。嫌なら都会に行け。って言われてるのと同じですよ。
どうやっても代替品にならねぇ。でも、それが認識されてるか疑わしいので、みんなで文句言いませんか?
2016年2月14日日曜日
富山県唯一のミニシアターが、近所にシネコンできるからやめちゃうんだって。
アホみたいな単純計算で申し訳ないんだけど、年会費1万円でフォルツァで上映される映画が一年見放題って賛助会員を2,000人集めたら、フォルツァ総曲輪って存続できるの?
集まるお金が2,000万円。昨年の助成金が1,544万円。
年間かかっちゃうお金って、そんな単純なもんでもないか。
でも、富山市民が418,961人。富山県民で数えたら108万人。その中の2,000人を募るって、数字的には凄くイージーじゃないか?
単館系の映画見たい層が、人口の1%を激しく切るなんてこともないと思うわけだよ。
文化大事って建前で動かなきゃいけない新聞とかテレビ局なんかに、率先して結託して協力してもらえればいいだけな気がするよ。
とりあえず、中日新聞のWeb版から引用。
http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2016021102100010.html
集まるお金が2,000万円。昨年の助成金が1,544万円。
年間かかっちゃうお金って、そんな単純なもんでもないか。
でも、富山市民が418,961人。富山県民で数えたら108万人。その中の2,000人を募るって、数字的には凄くイージーじゃないか?
単館系の映画見たい層が、人口の1%を激しく切るなんてこともないと思うわけだよ。
文化大事って建前で動かなきゃいけない新聞とかテレビ局なんかに、率先して結託して協力してもらえればいいだけな気がするよ。
とりあえず、中日新聞のWeb版から引用。
http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2016021102100010.html
富山県内唯一のミニシアターとして市民や映画ファンに親しまれてきた富山市総曲輪のフォルツァ総曲輪が9月末で映画上映を休止する。6月に近くの再開発ビルでシネマ・コンプレックス(複合映画館)が開館するのを受け、市と運営する市出資の第三セクター会社「まちづくりとやま」が判断した。9年間にわたり館を支えたファンからは惜しむ声が上がりそうだ。(松岡等)
フォルツァは、市中心部から映画館が次々に廃業した二〇〇七年二月、閉館後の映画館を活用してオープン。当初はまちなかで映画を見られる環境を維持しようと、市民有志らが運営する公設民営の施設としてスタートした。現在は市の補助金を受けて「まちづくりとやま」が運営している。昨年の補助金は千五百四十四万円。
2015年7月14日火曜日
なんだろうかこのマッドマックスの再見引力……。本当にじわじわきている。
椅子やら鍵やらを返却して、公演関係は全て終了。
職人は頭だけでなく、手なり体なりを動かしていなければならないというお言葉をいただき、やっている間に年老いてくたばる年齢に足を踏みいれている取り返しのつかなさと向き合っている。
書きます。
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を見てから一週間が経過した。
映画は何かの事情でもない限り、上映中に複数回映画館に行くということは無いのに、じわじわともう一度見たくなってきている。
どうしても構成を見てしまうし、大学でそういう訓練を勝手に受けてしまった自覚もあるため、本当に何度見ようがそれなりに時間でも経って居ない限り、再見で新たな発見というのを経験したことがない。それでも、もう一度見たい。なんでだ。
イムモータン・ジョーの一部かそうでないかということ。
ニュークスが堕落して得たもの。そして、イムモータン・ジョーのウォーボーイとしての転生という重要なアイデンティティを失って為したこと。
まずいな。もう一回行くのか俺。
ところで、経済がキーワードになると、富山県のご先輩がたはどうしても経済効率に固執せざるを得ないのか?
面白い考察が得られそうなお題な気もするが「ごもっともです、効率で良いのでスポンサーお願いします」というわけにもいかないので、TED実行への理解を求めて、結局は県外にも出なければならない予感がある。
文脈を行き来できないことの背景にはそれはそれで、重みもあろうもの。しかし、ちょっと悔しい話しではある。
職人は頭だけでなく、手なり体なりを動かしていなければならないというお言葉をいただき、やっている間に年老いてくたばる年齢に足を踏みいれている取り返しのつかなさと向き合っている。
書きます。
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を見てから一週間が経過した。
映画は何かの事情でもない限り、上映中に複数回映画館に行くということは無いのに、じわじわともう一度見たくなってきている。
どうしても構成を見てしまうし、大学でそういう訓練を勝手に受けてしまった自覚もあるため、本当に何度見ようがそれなりに時間でも経って居ない限り、再見で新たな発見というのを経験したことがない。それでも、もう一度見たい。なんでだ。
イムモータン・ジョーの一部かそうでないかということ。
ニュークスが堕落して得たもの。そして、イムモータン・ジョーのウォーボーイとしての転生という重要なアイデンティティを失って為したこと。
まずいな。もう一回行くのか俺。
TEDxHimi準備
夜、TEDxHimiキュレーションチームのSkypeミーティング。諸々ゆっくりと固まっていく。ところで、経済がキーワードになると、富山県のご先輩がたはどうしても経済効率に固執せざるを得ないのか?
面白い考察が得られそうなお題な気もするが「ごもっともです、効率で良いのでスポンサーお願いします」というわけにもいかないので、TED実行への理解を求めて、結局は県外にも出なければならない予感がある。
文脈を行き来できないことの背景にはそれはそれで、重みもあろうもの。しかし、ちょっと悔しい話しではある。
2015年7月8日水曜日
ものは言いようで、空き店舗利用の文化行為だった。しまった。
血パンダの公演『Ostinato』が迫っているわけですけれど、思えば特設劇場シアター血パンダは、高岡大和前の一等地にある空き店舗ですよ。
高岡市民を通じて、高岡市役所とかになんかお願いしてお金せびり取れたり、取れる方法模索できたんじゃないのかと思ったら、残念至極です。くっそ。こういうのに上手に気がついて行政からチューチューするには、コーチかファシリテーターの勉強でもしたらいいのか?もしくはまちづくりに食い込めばいいのか。カフェ開業か。
アートを保護しろ!責任者出てこーい!とか、まぁ、こちとら爽快な演劇とか夢を実現させたいとかいう活動ではないんで、うんこみたいな冗談はさておいて、いや、さておくとしても折角の田舎なんで、そのうち自分たちのアトリエぐらいは、なんとかしたいものです。
風通さんといかんし、電気代と水道代を自分で払ってくれたら好きにしていいよ。とかいう危篤な家主さんが居られたら、お知らせください。
あれ?そのままなんか小屋として使える様にチマチマ平台とか箱馬作っていけば……。いいなぁ。大家さん特権として、そこで行われる催しは顔パスでいけるってのはいかがでしょう。
ご連絡、お待ちしております。
あ、見たので『マッドマックス』については喋れる様になったよ。
本当に胡乱で、いろんな意味でここに書けない話というのはあるもので、しかも、本来は俺の問題じゃないんだけれど、避けて通るわけにもいかない。
無視していてもいいけど、関係ある話しになった瞬間からとてもややこしいことになるので、最初から関係しておかざるをえない。
なんじゃこりゃ。まるで政治ですね。本当に、徹頭徹尾どこかで勝手にやってくれるだけなら、ただの香ばしい話しなんだがなぁ……。
高岡市民を通じて、高岡市役所とかになんかお願いしてお金せびり取れたり、取れる方法模索できたんじゃないのかと思ったら、残念至極です。くっそ。こういうのに上手に気がついて行政からチューチューするには、コーチかファシリテーターの勉強でもしたらいいのか?もしくはまちづくりに食い込めばいいのか。カフェ開業か。
アートを保護しろ!責任者出てこーい!とか、まぁ、こちとら爽快な演劇とか夢を実現させたいとかいう活動ではないんで、うんこみたいな冗談はさておいて、いや、さておくとしても折角の田舎なんで、そのうち自分たちのアトリエぐらいは、なんとかしたいものです。
風通さんといかんし、電気代と水道代を自分で払ってくれたら好きにしていいよ。とかいう危篤な家主さんが居られたら、お知らせください。
あれ?そのままなんか小屋として使える様にチマチマ平台とか箱馬作っていけば……。いいなぁ。大家さん特権として、そこで行われる催しは顔パスでいけるってのはいかがでしょう。
ご連絡、お待ちしております。
胡乱な話が勃発したので逃避……。
朝からきな臭かったので、それを避けるために『マッドマックス』に避難。とはいえ、文字通り避けているだけでただの逃避でしかなくて、結局は時間取られてしまう。あ、見たので『マッドマックス』については喋れる様になったよ。
本当に胡乱で、いろんな意味でここに書けない話というのはあるもので、しかも、本来は俺の問題じゃないんだけれど、避けて通るわけにもいかない。
無視していてもいいけど、関係ある話しになった瞬間からとてもややこしいことになるので、最初から関係しておかざるをえない。
なんじゃこりゃ。まるで政治ですね。本当に、徹頭徹尾どこかで勝手にやってくれるだけなら、ただの香ばしい話しなんだがなぁ……。
2015年7月7日火曜日
不味いなぁ。目だけ尖っていくとか今更恥ずかしい……。
ここしばらくの懸案だった火鉢を入手。睡蓮鉢。
というか、このごついのは睡蓮なのか?なにはともあれメダカも無事泳いでいるので、よしとしよう。
ここ暫く、手数のあげ方について考えている。その必要に迫られている。
いろいろ考えてみたが、自分の活動に絞るだけにして、人の養成も必要以上にはやらないでおくことにすると決める。
とりあえず、無駄を省くという楽な方向に走ってみる。
今の時間配分の中で一番無駄だったのは、何かを教える時間だ。これを、チームのクオリティの向上か、必要のある人に有料でということにする。そんなスタンスに体を慣らしていこう。
実績とか評判って意味では、なんせインディーだし、全うにビジネスになった記録は無いんですが、それでも不滅に近い普遍性を持つネタが昨年辺りから、またぞろ柴田剛との間に転がってまして、こいつに決着をつけてしまわなければ、どうにも残便感で夜も眠れないものであります。
『おそいひと』同様、すり減りにくい普遍性のあるネタな上に、「障害者」というわかりやすい判別機能も含まないので安心。
こんなことを書くと、ソッコーで今どきはクラウドファウンディングだとか言われるんですが、ここはひとつ、そうでない手法で、なんとかならんものかと、ずっとモノとして残って何度でも上映できる映画にはそこも重要でして、まぁ、このハナシは割愛でもいいや。
なかなか、インディーで映画を撮り続けられるサイクルに柴田を放り込むってのも難しい時代。なんとかならんもんだろうか。柴田本人も改めて呼吸整えているので、どうにかしたいところ。
それにしても、本当にいろいろ詰まっているので、順次消化していきたい。
帯の紹介にも味わい深い一冊とあるが、なんというかそんなに刺激的でもなく、優しいキャラメルの様な、だるいなおい。
だるいけれど、いきなり時間が過去から未来に向けて流れるって体感自体が錯覚とか、通じないことを言ってもしょうがないので、これはこれで良いキーワード集。きちんと読みます。
そういば、周囲の流れに負けて『稼ぐ町が地方を変える』も買っていた。これは確かに盛り上がる。走りだしているものの軌道が変わる力になりますように。
というか、このごついのは睡蓮なのか?なにはともあれメダカも無事泳いでいるので、よしとしよう。
ここ暫く、手数のあげ方について考えている。その必要に迫られている。
いろいろ考えてみたが、自分の活動に絞るだけにして、人の養成も必要以上にはやらないでおくことにすると決める。
とりあえず、無駄を省くという楽な方向に走ってみる。
今の時間配分の中で一番無駄だったのは、何かを教える時間だ。これを、チームのクオリティの向上か、必要のある人に有料でということにする。そんなスタンスに体を慣らしていこう。
映画に駆られている件
と、そのくらい余裕が無い原因というか、映画作りたいんですけど、どなたかプロデューサー居ないもんでしょうか。困っております。実績とか評判って意味では、なんせインディーだし、全うにビジネスになった記録は無いんですが、それでも不滅に近い普遍性を持つネタが昨年辺りから、またぞろ柴田剛との間に転がってまして、こいつに決着をつけてしまわなければ、どうにも残便感で夜も眠れないものであります。
『おそいひと』同様、すり減りにくい普遍性のあるネタな上に、「障害者」というわかりやすい判別機能も含まないので安心。
こんなことを書くと、ソッコーで今どきはクラウドファウンディングだとか言われるんですが、ここはひとつ、そうでない手法で、なんとかならんものかと、ずっとモノとして残って何度でも上映できる映画にはそこも重要でして、まぁ、このハナシは割愛でもいいや。
なかなか、インディーで映画を撮り続けられるサイクルに柴田を放り込むってのも難しい時代。なんとかならんもんだろうか。柴田本人も改めて呼吸整えているので、どうにかしたいところ。
それにしても、本当にいろいろ詰まっているので、順次消化していきたい。
読書
ちょっと前に買っていた『U理論』。つまみ食いをやめてとりあえず頭から読みなおしている。帯の紹介にも味わい深い一冊とあるが、なんというかそんなに刺激的でもなく、優しいキャラメルの様な、だるいなおい。
だるいけれど、いきなり時間が過去から未来に向けて流れるって体感自体が錯覚とか、通じないことを言ってもしょうがないので、これはこれで良いキーワード集。きちんと読みます。
そういば、周囲の流れに負けて『稼ぐ町が地方を変える』も買っていた。これは確かに盛り上がる。走りだしているものの軌道が変わる力になりますように。
2013年4月3日水曜日
悪ってなんだって話しとか、すげぇっす。
5歳になった娘が誕生日に映画が見たいと、そんな強烈なリクエストがあったので、プリキュアの映画を見に行ったのであります。
そもそも娘はプリキュアがテレビ放映していることを知らず、極めて断片的な情報で勝手に入れ込んでいる部分があるので、実際に動いているのを見せるのも、それはそれで面白いかということで、諾々と同伴しました。
最初はドラえもんとか言ってたんですわ。劇場で、「ドラえもん?」「プリキュア?」「ドラゴンボール?」と目の前にある選択肢を問えば、全く迷わず「プリキュア!」と返事が戻りました。恐ろしいものであります。
年代わりでシリーズを刷新し、女の子の心と親のサイフをがっちりロックするプリキュアシリーズだが、それがシリーズ揃い踏みとなったら一体どんな風にまとめていくものかと思えば、がっちり太い主題を踏まえ、非常に道徳的な内容で、そのあまりの力強さに微動だにできない有様。
悪を為すのは自分の影、理解されないからといって、相手を排除しようとしては元も子もなくなる。きちんと心を伝えることが大切とか、上映後、娘に確認したものの、プリキュアが頑張っていたところにだけ注目して、何も気づいていなかった模様。太い主題が素晴らしく自然に筋書きに馴染み過ぎて、太いままスムーズに展開していくので、家や幼稚園で日常的に怒ったり謝ったりさせられている五歳には、この葛藤よりも、そこから起こる混乱の収束方法にしか注意が行かなかった様子。
プリキュアシリーズの中には、最初はプリキュアと敵対していたものの、戦っているうちにやがてプリキュアに帰順してプリキュアになった連中も居て、敵は自分自身の中に内在しており、コミュニケーションこそが大切であるということを強調しておりました。
絶対的で根源的な敵対などあり得ないという主張だと、そんな理解で構わないですな。
なんでしょうか、日本の平和教育の成果というか、なんだろ。既に盤石じゃないすか?
つうか、「悪」「自分の影」というキーワードでググると、上位に表示されるサイトって、なんだか凄まじいですよ。
俺自身、お寺が経営している幼稚園に通っていたのと、家が浄土真宗で毎月普通にお坊さんがやってきてお経をあげていくので、仏教的な刷り込みってあるもんだなぁと思っているのですけれど、こういった宗教的な背景の無い皆さんの中には、プリキュア的な刷り込みをされる世代も出てくるのではないかと、その可能性を感じさせるものであります。
シリーズも10年目に突入して、5歳でプリキュアを体験した娘さんは15歳。なんとなく潜伏期間を置いて、彼女たちがお母さんになり始める頃にシリーズが一段落していたとしても、ここまで太いと確実にリバイバルありそう。そんな内容です。
特段評価して入れ込むとか、プリキュアはまっちゃったぜ☆ってもんでもないんですけどね。
2011年8月5日金曜日
スクリーンツーリズムという言葉を利用して何をするか
8月2日に、富山のサンフォルテで行なわれた『スクリーンツーリズム&観光ICTシンポジウム』を見てきた。
もっと濃い展開になるのではないかという面々が登壇していたものの、微妙に入り口付近をなめただけで終了の時間が来てしまった様な内容だった様に感じる。
スクリーンツーリズムとは上手く片仮名にしたもので、要は映画のロケ地を観光地として利用しようというものだ。『冬のソナタ』がヒットした時の韓国へのロケ地ツアー。逆に、韓国、中国からも日本が舞台になっている映画のロケ地への旅行が話題になっている。アニメの場合、このロケ地ツアーを聖地巡礼と言い換え、2000年代半ば頃からアニメファンの間に、作中に登場する場所に行ってみるという動きが見られる。
富山県であれば、『true tears』の舞台として風景が利用された城端がまさに巡礼先になっている他、今年公開され、各地で単館上映が続いている『ほしのふるまち』でも、原作マンガの時点から舞台となった氷見市内で、背景に利用された場所を巡る人の話しを聞く。
地域にとって、映像、マンガなどのコンテンツを観光に利用というのは、果たしてどの様に実行していくべきなのか、個人的にはその辺りがいまひとつ理解できないでいる。
例えば、私が住んでいる氷見市であれば、巨匠今村昌平の『赤い橋の下のぬるい水』のロケ地で、この作品はカンヌにも出品されている。
この映画については、内容が大人向け過ぎてちょっと使えないというのが正直なところだろうか。タイトルにもなっている「赤い橋」は現在、この橋を赤く塗ったのは塗装業者ではなく、美術スタッフだ。ということがわかる塗装の剥げ方をしており、非常に味わい深いたたずまいになっているが、特にこれを、氷見に来たら見ておくべきものというPRはされていない。
『赤い橋の下のぬるい水』公開当時はPG-15とはいえ、観光客で15歳以下というのは、明らかに氷見市のターゲットではない。むしろ、赤い橋自体は整備しなくても、氷見を訪れて初めて作品を知り、帰宅してから『赤い橋の下のぬるい水』を見て、再び主人公を演じた役所広司の気分で氷見を訪れる50代、60代のおとうさんたちのリピートのきっかけとして、利用できるのではないかと考えるのだが、いかがなものだろう。
ターゲットへの訴求という意味では、どの様にしてターゲットのコンテクストに入り込むかが重要になるのだから、作品そのものが大人向けの良作であればこそ、大人への訴求という条件は十分にクリアできているものと考える。
スクリーンツーリズムは、要は「映像作品の追体験をロケ地でしませんか」という提案で、映像作品を旅のきっかけとして利用しようということに尽きるのだと考えるのだが、そのきっかけとなる映像作品自体は、舞台となる地域には全くコントロールできるものではない。ただ、自分たちにも理解できる、都合の良い良作が次々に目をとめてくれることに期待しつつ、フィルムコミッションを作ってみたり、淡々とロケ地として相応しいと思う場所を紹介してみたりというのは、いつか王子様がという姿勢に見えてしまう。受け皿は無いよりもある方が良い。しかし、積極的に利用する方法については考えられているだろうか。
シンポジウムでは、プロデューサーの阿部秀司氏が、映画を作る時の予算について10億単位の話しをしておられたが、単館系の映画のスタートなど、未だに手弁当だったりとにかくかき集めた300万とか500万という金額でスタートしている。
私がかつて『おそいひと』という作品の企画を立ち上げたときも、若手の芸術家を支援する基金から得た300万円がスタートの資金となった。
先日、この『おそいひと』の監督、柴田剛と会って直近の企画書を見せてもらったが、自分たちで資金調達もなんとかするということで、1200万を調達できれば御の字という規模で計画していた。しかも、最悪パイロット版の製作ということで、300万程度でロケハンとシナハンしながらとにかく撮影するパターンも……。という有様である。柴田の作品は『おそいひと』以降、普通に海外の映画祭にも出品され、現在では長編第一作『NN-891102』にも出品依頼が来る。しかし、国内的な知名度という意味では全く無名だ。
この映画の企画書を柴田剛と一緒に作っていたのは、結構長く続いたビデオシリーズなどを製作していた監督だ。TSUTAYAに行けば彼が製作したDVDがずらっと並んでいるが、それでも恐らく彼自身の名前を知る人は少ないだろう。
昨年、日本の映像文化の発展を促進する公益財団法人ユニジャパンが、まさしく「スクリーンツーリズム促進プロジェクト」としてシナハン、ロケハンに100万円以内という助成を行っていた。柴田剛らが考えていた、ロケハン、シナハン自体を作品に直結していくという方法であれば、この規模の助成が取れればパイロット版作成の1/2〜1/3の資金調達が完了することになる。
映像作家や作品にフォーカスして、情報収集を少しだけ真面目にやれば、国内上映作品のアーカイブやどんな監督がどんな作品を撮ったか、どんな作品が国内ではあまり上映されていない割に、海外に出ているかという事には簡単に辿り着くことができる。そんな意味ではICT活用の基礎部分は整っている。
昨今のアニメーションの公開形態を見れば、従来のスキームにこだわらなければ、パブリシティやマネタイズの面でも、映像作品とICTの親和性は十分に高いことは見て取れる。
映像作品に関わることで何かをしようと考えるのであれば、その根本となる「作品を作る」という点に注目すること、つまり、受け身をやめてスタートを押さえるという戦略は十分に検討の価値があるのではないだろうか。
幾らの予算で、何本の映像作品を世に送り出し、例えばそれを富山県のPR、観光誘客に利用するという長期的な積極策は、十分に立てられるものと思う。
もっと濃い展開になるのではないかという面々が登壇していたものの、微妙に入り口付近をなめただけで終了の時間が来てしまった様な内容だった様に感じる。
スクリーンツーリズムとは上手く片仮名にしたもので、要は映画のロケ地を観光地として利用しようというものだ。『冬のソナタ』がヒットした時の韓国へのロケ地ツアー。逆に、韓国、中国からも日本が舞台になっている映画のロケ地への旅行が話題になっている。アニメの場合、このロケ地ツアーを聖地巡礼と言い換え、2000年代半ば頃からアニメファンの間に、作中に登場する場所に行ってみるという動きが見られる。
富山県であれば、『true tears』の舞台として風景が利用された城端がまさに巡礼先になっている他、今年公開され、各地で単館上映が続いている『ほしのふるまち』でも、原作マンガの時点から舞台となった氷見市内で、背景に利用された場所を巡る人の話しを聞く。
地域にとって、映像、マンガなどのコンテンツを観光に利用というのは、果たしてどの様に実行していくべきなのか、個人的にはその辺りがいまひとつ理解できないでいる。
例えば、私が住んでいる氷見市であれば、巨匠今村昌平の『赤い橋の下のぬるい水』のロケ地で、この作品はカンヌにも出品されている。
この映画については、内容が大人向け過ぎてちょっと使えないというのが正直なところだろうか。タイトルにもなっている「赤い橋」は現在、この橋を赤く塗ったのは塗装業者ではなく、美術スタッフだ。ということがわかる塗装の剥げ方をしており、非常に味わい深いたたずまいになっているが、特にこれを、氷見に来たら見ておくべきものというPRはされていない。
『赤い橋の下のぬるい水』公開当時はPG-15とはいえ、観光客で15歳以下というのは、明らかに氷見市のターゲットではない。むしろ、赤い橋自体は整備しなくても、氷見を訪れて初めて作品を知り、帰宅してから『赤い橋の下のぬるい水』を見て、再び主人公を演じた役所広司の気分で氷見を訪れる50代、60代のおとうさんたちのリピートのきっかけとして、利用できるのではないかと考えるのだが、いかがなものだろう。
ターゲットへの訴求という意味では、どの様にしてターゲットのコンテクストに入り込むかが重要になるのだから、作品そのものが大人向けの良作であればこそ、大人への訴求という条件は十分にクリアできているものと考える。
スクリーンツーリズムは、要は「映像作品の追体験をロケ地でしませんか」という提案で、映像作品を旅のきっかけとして利用しようということに尽きるのだと考えるのだが、そのきっかけとなる映像作品自体は、舞台となる地域には全くコントロールできるものではない。ただ、自分たちにも理解できる、都合の良い良作が次々に目をとめてくれることに期待しつつ、フィルムコミッションを作ってみたり、淡々とロケ地として相応しいと思う場所を紹介してみたりというのは、いつか王子様がという姿勢に見えてしまう。受け皿は無いよりもある方が良い。しかし、積極的に利用する方法については考えられているだろうか。
シンポジウムでは、プロデューサーの阿部秀司氏が、映画を作る時の予算について10億単位の話しをしておられたが、単館系の映画のスタートなど、未だに手弁当だったりとにかくかき集めた300万とか500万という金額でスタートしている。
私がかつて『おそいひと』という作品の企画を立ち上げたときも、若手の芸術家を支援する基金から得た300万円がスタートの資金となった。
先日、この『おそいひと』の監督、柴田剛と会って直近の企画書を見せてもらったが、自分たちで資金調達もなんとかするということで、1200万を調達できれば御の字という規模で計画していた。しかも、最悪パイロット版の製作ということで、300万程度でロケハンとシナハンしながらとにかく撮影するパターンも……。という有様である。柴田の作品は『おそいひと』以降、普通に海外の映画祭にも出品され、現在では長編第一作『NN-891102』にも出品依頼が来る。しかし、国内的な知名度という意味では全く無名だ。
この映画の企画書を柴田剛と一緒に作っていたのは、結構長く続いたビデオシリーズなどを製作していた監督だ。TSUTAYAに行けば彼が製作したDVDがずらっと並んでいるが、それでも恐らく彼自身の名前を知る人は少ないだろう。
昨年、日本の映像文化の発展を促進する公益財団法人ユニジャパンが、まさしく「スクリーンツーリズム促進プロジェクト」としてシナハン、ロケハンに100万円以内という助成を行っていた。柴田剛らが考えていた、ロケハン、シナハン自体を作品に直結していくという方法であれば、この規模の助成が取れればパイロット版作成の1/2〜1/3の資金調達が完了することになる。
映像作家や作品にフォーカスして、情報収集を少しだけ真面目にやれば、国内上映作品のアーカイブやどんな監督がどんな作品を撮ったか、どんな作品が国内ではあまり上映されていない割に、海外に出ているかという事には簡単に辿り着くことができる。そんな意味ではICT活用の基礎部分は整っている。
昨今のアニメーションの公開形態を見れば、従来のスキームにこだわらなければ、パブリシティやマネタイズの面でも、映像作品とICTの親和性は十分に高いことは見て取れる。
映像作品に関わることで何かをしようと考えるのであれば、その根本となる「作品を作る」という点に注目すること、つまり、受け身をやめてスタートを押さえるという戦略は十分に検討の価値があるのではないだろうか。
幾らの予算で、何本の映像作品を世に送り出し、例えばそれを富山県のPR、観光誘客に利用するという長期的な積極策は、十分に立てられるものと思う。
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