氷水ネタは散々茶化したけれども、特段沈静化するものでもないので改めて乗っておきます。
母数やソースの少ないところから始める。
自分の身の回りでネットで、ホーキング博士に言及する書き込みを行った人は、ここまで一人だけだった。
その人らしいいつもの皮肉で、「ホーキング博士がかかっている病気なのに、みなさんご存知ないんですね」といった内容の書き込みを見て、ホーキング博士、超有名だと思っていたけれど、そうでもないのかもしれないとも思いはじめていたので、たった一人の書き込みだけれども、我が意を得た気持ちになった。
先日、とあるお医者さんと雑談で、氷水というキーワードが出たので、
「なんでホーキング博士のこと、忘れちゃうのかね」
「みんなそれぞれ自分のことで忙しいんすよ」
「ナルホド」
といった会話を交わして、それもそうかと納得した。
確かに、あらゆることが常にそうだ。
他人の病気や困難についてアイコンは機能しない。
キーワードが出て来てもアイコンを思い出さないのが普通。アイコンを見ても行動につながらないのが普通。
だとしたら、難しいことを言っている車椅子の天才を見ても、それ以上の関心を持たないことが普通の忙しさだ。何度テレビのニュースで見てもだ。
なんだかんだで、人の「心地よい」とか「自分のためにプラスになる」という欲望との直結がなんだかんだで効果的なキャンペーンになることは確かだ。
なんのことはない。それがマーケットやブランドの理論だった。
どうしてそういう普通から離れられないのか。忙しいから忘れてしまうことはあるだろう。
人なのか人でないのかといえば、人の筈だ。人格だ。
各々生活もし、心も持っているのに、セグメントを構成する要素でありペルソナに合致する「人」でどうするんだと心地よさと個人的な不快だけで構成されて、あくせくと長生きを目指す情報ばかり見ては感心してすぐに忘れてどうするんだ。
「何度も聞いている筈なのに初耳の問題」「目にとまっても問題として認識されないこと」は社会から一切なくならない。それでいいのか?
確かに足下の身近な問題ですら、行動しないでいられるし、何かしていれば活動家だと言われるのが普通で、一人の人間にカバーできることには限りがあるけれど、おい。普通って一体なんだ。
過去の災害は忘れられ、改めて人が死ぬ。教訓は風化して、改めて人が死ぬ。理論上は問題ないものの運用に無理があって事故が起こる。
これが普通だとしたら、普通の撲滅について真剣に考える必要があるんじゃないだろうか。
活動はいくらもあるだろうから、せめて極端な啓蒙の必要ない社会を作るための、もっと冴えたアプローチはないものだろうか。
いや、ずっと、一貫してそんなことを考えているので、これは別に皮肉でもなんでもないです。
『おそいひと』、インディーの映画なので実際そんな映画があったのかどうかも都市伝説の域に達しつつありますが、結構中古で流通していて、日本橋で100円とか200円でワゴンの中にあったという報告もあります。Amazonでも購入可能です。
なんだアフリかよということではなくて、私自身の一貫性についての担保ってことで。
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