流木で何かしたいというフジッキーの発想があって、そこからのスタート。
前日に海岸が清掃されて、まさかの不発かと思いきや、流木が一箇所に集積されており、かえって恐縮。
生花視点での流木の良し悪し。何を見るか、どう活けるのかという話し。
流木の白くなり死んだ木肌の良し悪し。丸くなってしまったものよりは、折れてギザギザになったところのあるものが使いやすいということ。
なんとなく、流木で皿を作るという別ミッションのことも考えながら、夕方の氷見の海岸をふらふらして、実際に浜辺に流木を生けてみた。
フジッキーも、花屋になる前は結構な舞台役者で、日本の演劇の突端付近にいた男。流木も、立てたら空間になって、人がそこに立つというイメージは十分にできたうえに、さらにその流木が生けられたか、生けられていないかという視点が入るので、とても楽しい思いをした。
人間、公園だろうか道の真ん中だろうが、それなりのスペースにそこそこの高さのものを立ててしまうと、案外そこに非日常的ななにかを見出して満足してしまいがちになるものだが、この、生けられたかどうか、いかに生けるかというクオリティの求め方があると、一気に広がりが増していくと同時に、ただ立てるなら、どんな流木が良さそうかということもわかってくる。今回海岸で得られた、我々が思い描く舞台のディスプレイに適した流木についての考察は以下。
- 木肌は、より白い方がいい
- 長さは3メートル以上あった方がいい
- 枝の折れ感が鋭い方がいい
しかし、この条件があったからといって、決して何かが狭くなったわけではない。
ただ、こんな流木を求めて、海が荒れた次の日の海岸に行くしかなくなってしまったことも確かだし、ここからさらに、これが覆る何かを発見したり、新たな境地にたどり着くことができるかもしれない。
やっぱり場そのものや場数ってのは大事だし、専門家の目やら、考察を次につなげていくことというのは大切ですな。
何かの時点ので区切りは作るにしても、それもひとつの通過点に過ぎないわけで、幾つもの仮定や考察について、取捨選択の時間を短縮し、精度や品質を高めていくには、こうやっていくしかない。
わかるわからないも、やったかやらないかだけで決まると言って過言ではないっすね。
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