2015年8月13日木曜日

なんだか数日こねまわしていたんですけど、持っていてもふくらんでいくだけなので、日記だよということを思い出して、ちょっと整理して放出。いつにも増してわけわからないし、まとまり無く長いので注意。血パンダとTEDxHimiは人員を求めています。

年明けてTEDxHimiの準備を本格化し、先日血パンダの公演を終え、ずっと頭の片隅で考えていたことがある。
先日、これに追い打ちをかける形で、某所でインタビューの内容から、いつから田舎はダメってことになったのか、どうやって脱出したらいいのかと、自分の中で大問題化している。
これ、前提として、土地に縛られてポータビリティを無くしてどうするって話しもセットなんで、そこを忘れない様に。
目についてどうしようもなかったものが、解決しないまま自分の中でどんどん増幅していって、本当にイライラしているわけですね。
以下、壮大な愚痴ってことで、ワロスワロスでもいいんだけど、いかがなもんだろうか。

個人的には、今どきは田舎でも特に問題ないわけで、個人的には映画を見るのが大変なだけだ。ロードショウを逃したらその瞬間に映画館で見るやりくりすらできない。これはしかしまぁ、我慢できる。
問題は人の頭数だ。
皆さん概ね「田舎でやってもしょうがない」「田舎だからいいじゃないか」とか、「こんななんにも無い田舎で……」という定番のやつに蝕まれている。
でなければあとは、周囲の雰囲気を見ての判断の結果ご一緒できないとか、俺ごときが、私ごときがというのが始まって、何かしようと言っても、そうそう順調には人が集まらない。
さてひとつなにかをしよう、そのための徒党を組もうとなった時に、必要な教養のある人間が簡単に集まることは非常に重要で、田舎では実際これがとても致命的だ。
じゃぁ、教養ってなにさって話しになるけれど、これは、なんかやるぞ。となった時に、そこに意義を感じた各々が、細かく言葉なんて通じなくてもいいから、ちゃんと正直に、我田引水をせずにみんなでどんな行動ができるか。そしてそれを実行していくうちに、何処かの時点でどのぐらい豊かな共通の語彙、認識を持つに至るか。
ここまでのプロセスに耐えられるかどうかが教養の有無のひとつの指標だと考えている。
一人で黙々と何かするんなら問題ないのかもしれないけれど、一人なら極端な話し、人類最後の一人になったとしても同じことだ。あ、流石に誇張しすぎ。

幸い、情報ならインターネットですぐに入ってくるし、今どきは一般的に中学は卒業できているので、大概の日本語は理解できる筈だ。
子どもたちが等しく妖怪ウォッチにはまる様に、大人だってなんだかんだで、いろいろな情報に触れられる筈なんだけれど、結局はどうだろう。実際、多少苦労するものには辿り着いても無かったことになるし、乗っかれる他人のふんどしならいいけど、自力で何かとなると、全くピクリとも動かない。
これは、多様化したからだと思っていたけれど、そもそもそういうもんでもない。手に届く範囲からどのくらい広げられるかってだけで、人間はそもそも一日二四時間、処理能力をフル稼働して生きていないので、知らないであたりまえだってことですよ。
見たり知ったりした瞬間に体が動くのか。そういう情熱を、なんであれしっかり培う雰囲気が田舎には無いんじゃないのか。これはなんでだろう。
仕事の休み。車。パチンコ。ショッピングセンター。禁煙。酒の量。これに、村の揉め事や祭りの話題が加わるだけでも幸せなんですけど、同じ話題がループするんですよ進もうよ。深めようよということなんですが、なかなか無いのです。
とはいえ、最近の世の中には自己肯定やら生き方のTipsやら学びの場があふれているんじゃないのかと見えるんだけれども、結局みんなで何処を見て時間だけ潰して身動きする時間を無くしているのか教えて欲しい。
何かを他所から持ってくるのはいい。どんな風にして自分の居る場所で形にするのか。完コピが上手くいくわけもないし、ただの真似だとそもそも薄っぺらくて根付くわけもないんだから、とりあえずできる範囲でいいから、ちゃんと根付くことしようよと思うわけだ。君のまわりに、君がなんか言ったりやったりしたことを区切りにしている人はいるか?そんな仲間を集めて、誰かのふんどしにそのまま乗っかるんじゃなくて、自分たちのものにローカライズして磨けているだろうか。
ナンバーワンのクオリティがお嫌だからって、オンリーワンを目指したら、それこそ圧倒的なクオリティが無いと、ものの数にも入れてもらえないことの恐怖に気づいておられるだろうか。残れないなら時間つぶしと同じで、それでもいいということは、極端な話し、人類最後の一人に以下略。

こういうのね、さて考えてみようぜとか言ったら、改めてTEDのバカ踊り動画とかで解説されても、頭にくるだけなんすよ。実際のところリーダーシップとかそういうもんでもない。
その辺の、普通に誰でもする分析はもうどうでもいいから、分析だけして踊らないことに価値があるなら、その真の価値についても厳しく問いたいものであります。
俺はそんなこんなで、血パンダ結成までは富山県内で誰一人、改めて演劇やろうってい言ってもあんまり相手にしてもらえなかった。そうこうしているうちに戯曲読んで集まってもらえたものの、いろいろ考えても、通算6年がかりぐらい。非常にありがたいことだが、やっぱり、あらぬ時間のかかりかたをしていると思うわけですよ。
さっきのリーダーシップってことでいえば、俺は血パンダの団長なんですけど、戯曲書いて演出するだけだから、役者が居ないとなんもできないわけです。大道具も制作も自分でやるとか、どんだけやねんって話しですよ。役者のみんなに言わせれば、「俺達書けないもん」って話しになるし、ほとんど場面転換も音も無いお芝居ですけど、血パンダの舞台にピッタリの地あかりを設計して調光してくれる照明さんが居たら、もっと凄まじい舞台になるんですよ。必要なのは、ナンバー2なのかと問われれば、答えは否です。
ある程度の規模にならない限り、マネジメント云々ってのは、できない、やらない奴らの戯言で、始めようやってみようって規模なら、頭働いて体動くやつが集まって何をするかきちんと考えれば、事足りるし、そういう中で長期展望っぽい種をきちんとまいていくことも、視野に入れられればいいんじゃないのかと、そんな次第。で、何処にいて、どうやって集まるのが普通なんだよ。

そうだ。血パンダは劇団員募集してます。TEDxHimiもまだまだ人員不足であります。
血パンダは演劇。TEDxHimiは例のトークイベントを実行する集団だけど、本当は、TEDの精神に従って、いろいろ活動したいところなんだぜ。
というか、ここまで書いててよくよく考えたら、ideas worth spreadingって、いいこと考えたから聞いてくれ!やってみようぜ!ってなんだか普通のことじゃないか。

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